総合的な学習のゆらぎ3
 英語学習に関わる特区は相当数の学校で実施されていますが、位置づける時間については圧倒的に総合的な学習の時間が多いと思います。それでいいのかなと疑問がわいてくる先生方も少なからずいるのではと思います。
 以前、このコラムで英語について次のような考えを示しました。

 子どもたちが学ぶ理由としては、異文化を吸収することで、考え方、見方、生き方、慣習などの視野が広がることがあげられます。英語が先にあるのではなく、異文化を理解することが先にある目的です。総合的な学習の時間との接点はこの部分にあり、言葉を換えて国際理解を目的とする分野です。英会話は情報機器と同様手段です。

 ALT配置の有無にかかわらず、何らかの英語学習をしている現場では、英会話を中心とした中身であり、異文化理解を中心的なねらいにしているとはいえません。コミュニケーションの手段としての英語に慣れ親しむことを一番のねらいにしているはずです。そうなると、寄せ集めの時間で位置づけて、総合的な学習の時間に抱き合わせることはやめるのが順当な考え方になります。その矛盾を解消すべく構造改革特区の申請をするところが増えたわけです。
ところが、特区で実施しているところでも、時間の捻出は総合的な学習からという考え方が多く見られます。低学年では生活科というわけにはいかず、こじつける時間がないために余裕時間を含めた寄せ集めになってしまいます。現場では、学習指導要領に縛られながら、拡大解釈を安易にしてしまうことで、本来示されていたねらいがぼんやりとしてしまう弊害はあるでしょう。

 これまでに教育に関わる問題が世間で注目されると、何かと対策的なてこ入れが教育行政の手によって発信されてきました。
 人間関係が希薄になり、学力の格差が進むことで「校内・家庭内暴力」「不登校」「いじめ」が増加。大学の門戸を広げてみると学力の低下した大学生が増え、高度に専門化された学問についていけず、果ては「ニート」に。体験不足が深刻だから「総合的な学習」を創設したものの、取り組みの熱意には学校格差が。教科の内容と時間を削減したら基礎学力が低下と批判を浴び、「学力向上」策を。10年英語を学習しても日常会話もできないといわれ、小学校から「英語学習」を。基本的生活習慣が乱れ学力にも影響が出ているから「食育」を。
 すべてを網羅していませんが、私が振り返って見ただけでも以上のような動きが思い出されます。多様化したように見える問題を子どもの視点に立って集約整理すると、行き着くところが見えるのではないかと思ったわけです。
 私の集約整理の作業結果は、「自立しない」もしくは「自立のおくれ」となります。一人ひとりを大切にすることが正しく実行されず、一人ひとりに手厚く親切にした結果です。世の中に出て通用する生活習慣、学力、人間関係を自分のものとして獲得しないまま大人になると、働くことや家庭生活、学び続けることに対して必要感がどんどん薄れてしまいます。すべての子どもがそうなっているのではありません。当たり前のように、自立を促そうと親や先生が不親切に徹しているところでは、前述したような問題点は深刻になっていないと思います。
 自立することによって生きていく中での必要感は確かなものになります。生活習慣も、学力も、人間関係も自分で判断して自分が必要とするところを使いこなすようになります。自分がしなければならないことを先回りして親切に手助けされてしまうことで、体験は体験とならず、したつもりにだけなるわけです。
 教育の現場、家庭の現場、仕事の現場で今一度振り返ってみてください。「自立しない」もしくは「自立のおくれ」がどのような形で表れてくるか見えてくると思います。以上のような背景から、私は総合的な学習の時間に固執しているわけです。現実の課題克服に最も適していると思います。