総合的な学習と英語教育
 私自身が外国語教育に対する偏った見方に陥っているため、小学校から英語教育をというかけ声に素直に賛同できないでいます。中、高、大の10年間接してきた英語やドイツ語が何につながったのか不明のままです。教科書以外の外国語で書かれた文献を紐解いたことは数えるほどしかありませんし、会話の機会は片言の単語で済ましていますし、映画は吹き替えか字幕スーパーで事足りていますし、バイリンガルのテレビ放送に興味がわくわけでなし、翻訳ソフトに頼らないと英語のホームページは読めません。一歩引き下がって、外国語=英語という発想も素直に入ってきません。圧倒的多数の中国でさえ、エリートにとってのみ英語が必須です。
 価値を見いだせるとしたら、日本語と決定的に違う表音言語の一つだということです。文法や構文の解説を抜きに話し言葉として学ぶ価値はあると考えています。「英語が話せないと世界では通用しない」とか、「英会話は低学年から取り入れる方が学習効果が高い」とか、「小学校で外国語としての英語を教えていないのは日本だけだ」とかいう意見が飛び交っています。打算的な理由ではなく、本当に必要な理由を探っていかないと私のような先生にかかると消極的になりそうな気がします。
 外国語を必要とするのは異文化を学ぶ機会に差し迫ってくることで、人と出会うことによって交流のために必要になってくるものです。職業的に必要とされる人たちは、会話ができないと仕事が成り立ちませんから、すでに所期の目的は達成しています。子どもたちが学ぶ理由としては、異文化を吸収することで、考え方、見方、生き方、慣習などの視野が広がることがあげられます。英語が先にあるのではなく、異文化を理解することが先にある目的です。総合的な学習の時間との接点はこの部分にあり、言葉を換えて国際理解を目的とする分野です。英会話は情報機器と同様手段です。
 別の視点として日本語がまともに操れない子どもがいっぱいいるのに英語をするようなゆとりはない、もっと国語教育に力を入れるべきだと主張して英語教育に消極的になる先生もいます。これは、正面からの論点ではなく、並列的、比較の考え方で説得力はないと思います。国語教育の中で起こる問題点は、すべての教育活動の中で克服しなければならないもので、英語をしなければ克服できるというものではありません。先生が日本語を大切に丁寧に扱わず、無頓着であれば、子どもたちの言葉に対する感覚も無頓着になりやすいものです。学校生活の中だけでも言葉に厳密に対応していれば、日本語の扱いは洗練されたものになることは確かです。先生自身が日々言葉遣いに磨きをかけていかないと国語の時間だけでは克服できない問題です。言語というカテゴリーに入るにもかかわらず、日本語と英語は切り離して考えたいところです。
 小学校の総合的な学習の時間、もしくは裁量時間に英語教育を組み込む際、目指したいのは表音言語を獲得することです。私のような翻訳会話に陥ってはいけません。「おはようございますを英語でいうと・・・。」ではなく「朝のあいさつは・・・といいます。」になるはずです。