理解
「近ごろ、理解という言葉の意味が気になって仕方ないですね。」
『どの意味かな?わけが分かる。気持ちを正しく受けとること。意味を正しく受けとること。国語辞典ではこんなもんですが・・・。』
「理解というのは知るということではないですよね。単に分かるということでもないですよね。」
『はい。例えば、行動を理解するというとき、行動にいたるきっかけとか、理由とか、つもりとかを絡めて受け止めなければ、理解したことにはならないです。』
「それがですね、現実には理解するところまでいかないで、認めて知るに留まっていることが多いと思うんですが、いかがでしょう。」
『それは、十分考えられます。ことのわけを抜きにして、行動だけ認知すれば楽ですよ。正しく理解したかどうかなんて考えなくていいわけですからね。』
「実は、生徒指導で児童理解ってのがありますよね。ホントに児童を理解していることができているのかなと気になるんです。この子はこういう子なんだと認知しているだけのような気がしてならないんです。」
『広い意味で言えば人間理解かな。表面的なことだけを理解する材料にすれば苦労しないでしょう。ところが、嫌悪しそうなことや否定しそうなことまで受け止めて理解しようとすると大変です。』
「表面的なことだけですませる場面が多いから、理解不十分になっているんですね。楽なわけだ。」
『似たようなことはまだまだありそうです。例えば、組織の中で共通理解するということがあります。これだって、ホントに共通に相互が理解しているのかなという疑問があります。』
「理解したような態度をとって理解を進めなければ、楽ができますね。面倒なことを考えて自分の言動を修正しなくてもいいわけですから、見せかけの共通理解というのがあることは否定できませんね。」
『評価でよく使われてきた知識、理解も、理解することの中身は年々おろそかになっているような気がします。』
「知っているか、どうかだけをひたすら試してきた結果でしょうね。」
『知っているかどうかは簡単に分かりますが、わけや意味、気持ちとなるときちんと説明できなければ判断のしようがないでしょう。』
「理解のある人柄と評されることがありますが、決して物わかりがいいという意味と同等ではないですよね。」
『そりゃあそうです。理解のある人柄が寛容な人柄を同時に持っているとは限りませんから。』
「要は、人とか、物とか、事象とか、いろんな対象に自分の意識が関わっているかどうかなんですね。」
『自己中心の考えが前面に出だしたころから、理解する力は衰えてきたとも言えます。あなたの言いたいことは聞きますが、私はこう思っているので、考えは変わりませんということにいきつきます。面倒な関わりを持ちたくないという本音がちらついています。』