課題と問題
 課題と問題のとらえ方が曖昧になっているのではないかという指摘をいただきました。自分自身あまり意識せずに使ってきたところがありますので、ご意見いただいたことに感謝します。
 自らの曖昧さを整理するために学習しなおしコラムの文言もすべて見直しました。課題と問題は、総合的な学習だけに限らず、学校教育以外にも、能力開発、人材育成の企業内教育などで取り上げられていることが分かりました。と同時に私と同様、意識されてない文章が結構あることにも気づかされました。
 出発点は問題意識から課題につなげるというあたりの考え方です。問題意識と問題は異なりますから、主に「問題と課題の違い」について整理してみます。
 まず、問題というのは学習のための問題から社会事象、自然事象、人格に至るまで、広い範囲に使われています。「江戸時代になぜ鎖国したのでしょうか?」「ゴミはどこにいくでしょうか?」「5の10倍はいくらでしょうか?」などは学習のために設定された問題です。「どうしてポイ捨てする人がいるのでしょうか?」「オジギソウはなぜ葉を閉じるのでしょうか?」「自己中心的な人が増えたらどうなるでしょうか?」などは人格、事象に関わる問題です。問題は山ほどありますが、問題が生成される土台には、人間が知識を理解するという営みがあります。知らなければ何も問題はないわけです。事象についての知識がなければ、問題とすることは何もありません。あるいは、一人だけなら理解する相手がいませんから、問題はおこりません。複数の人間が集まることによって、相手のことを知り、自分と比較する中で問題がでてきます。
 問題に気づくかどうかは個々人の興味関心にもよります。知的好奇心が旺盛ならばより多くの問題に
気づくと考えられます。そして、山ほどある問題が問題になるかどうかは、対象としてとらえる意識が形成されるかどうかにかかっています。一つのとらえ方として、問題は個人に付随するものではなく、事象に属しています。「その人自身の問題だ。」という言い方から個人に付随した問題もあるのではと反論されそうですが、社会関係の中で生じる問題だと私は考えています。差別や犯罪が個人の問題になってしまったら、隔離もしくは抹殺が究極の解決方法になってしまうからです。
 次に、問題を問題としてとらえたら、必ずその人の課題になるかというつながりです。課題は、自らが解決すべき事柄として自らに課すわけですから、事象ではなく個人に付随したものです。ここが問題と大きく違うことになります。ただ、組織的な課題というものもあります。学校の課題、職場の課題、会社経営の課題というように個人を特定しないような使われ方をする場合です。これらは人材が組織的に解決していこうとしますから、共通の目的を持った個々の課題と解釈することが可能でしょう。
 一方で、与えられた課題は課題ではなく、義務的に解決している問題だという意見もありますが、解決に向かっているのだから自分の課題として受け入れているという考え方もできます。そこで錯綜してでてくる言葉に問題解決と課題解決があります。あまり意識していなかった私にしてみると混同してしまうところです。さらに言葉が加わって、問題解決学習と課題解決学習になると、もはや何がどう違うのかという混乱さえでてきます。冷静に元に戻って考えると、課題を解決することと問題を解決することは同義でないことは確かです。解決する目的に主体がどう関わっているかが判断材料になると考えます。
 例えば、ゴミに関する様々な問題から「ゴミを減量するためにはどうすればよいか?」という課題を設定した子どもが、「なぜゴミを分別するのか?」という問題の答えにたどり着いたとき「分別すればリサイクルできるからゴミが減らせる。」という一つの課題解決の方策をつかむことができます。「なぜゴミが増えるのか?」という問題を解決したときには「買い物袋を持って買い物をすればゴミが減らせるのではないか。」という実践可能な課題解決をすることになります。時には問題解決はしていったが、課題解決には至らない場合もでてくるでしょう。
 問題は対象を定めずにあらゆる場面で生じるものです。ところが、自分という主体がなければ課題は設定できません。それゆえに個が尊重されなければ成り立たないことになります。個性の尊重ではなく、個の尊重です。

 この場で、問題と課題について考えるきっかけを与えてくださった匿名の投稿者の方に感謝いたします。