総合的な学習が進まない原因
 本年度は、時間割ができあがり、総合的な学習の時間が目に見える形で全国一律に示されました。道徳の時間と似たような雰囲気を持っていると感じたのは、気のせいでしょうか。
 主体的な実践意欲をもとにきちんと計画的に進めている先生もおられるでしょう。しなければいけないことは責任を持ってするという几帳面な先生もおられるでしょう。どちらかというと教科や行事の準備のために振り替えることが多いという先生もおられるでしょう。資料を読んだり、ビデオ見せるだけですませたことにする先生もおられるでしょう。中には持論を延々としゃべって一丁上がりという先生もおられるかも知れません。数年続いた道徳時間の確保の実態調査が現実を反映しているかどうかは、首をかしげるところです。
 道徳の時間は使用する資料や価値項目の配列が各校各学級に任されています。成績に直結する時間ではありません。受験に影響を与える時間でもありません。軽く見られる条件がいくつもそろっているわけです。
 では、総合的な学習の時間はどうでしょうか。共通点がけっこうありますから、時間は確保されていてもうやむやのうちにすまされる心配は捨て切れません。しかし、学校の中で一人だけうやむやにしていたら、「前年は何をしていたの?」という一言でばれてしまいます。学校全体が消極的であったり、見通しがたっていなかったりしていると、うやむやのうちにすむ可能性もあります。
 なぜ総合的な学習が進まないかという理由は単純に絞りこめないでしょうが、先生自身の指導観、学力観が大きく影響していることはこれまで主張してきたとおりです。別の見方をして、「何をどうしたらよいかが見えてこない。」という理由で進まない場合、先行実践や地域素材に学ぶことが多いでしょう。その時、分かれ目になることがあります。先生自身のこれまでの専門分野、経験の多いものから選んでいこうとするか、未知の分野から選んでいこうとするかという点です。先生の専門分野や経験から方向性を見いだそうとするとこれまでに吸収した知識が邪魔になりやすいおそれがあります。知らないことほど素朴な疑問をもって、子どもの目線で考えていけるというよさがあります。
 進まないという現実にぶつかったとき、自分は教えられただけで育ったのだろうか、自分が学んだことは何だろうか・・・と、自分に問いかけることで見通しが持てるのではないかと期待します。