失敗が見える総合
 総合的な学習の時間が本格実施され、実践事例がふえてきたのは好ましいことです。地域素材を生かしたものが圧倒的に多く、予想通りといえます。しかし、マスメディアの取り上げ方は相変わらず「ええとこ取り」で、構想・計画の部分と実践後の結果だけに目が向いているか、独創的な話題に目が向いているかのどちらかのようです。しかも、興味関心が高まった実践、意欲的に子供が取り組んだ実践に価値を見いだしてしまい、学習の主体者である子供たちがどんな学びをしたかという価値観が見えにくくなっています。商業主義に落とし込められないように、先生は教えるプロとしての判断力を見失ってはいけません。
 教科の学習で培ってきた指導法の中身として、結果よりも過程を重視するという考え方があります。到達することが目的なら、結果オーライでいいのではと考えてしまう現実があることは否定できません。「できる」「分かる」の視点から「学ぶ」の視点におきかえて、結果に至るまでの過程に価値観を見いださないと学ぶ値打ちは培われません。
 算数の指導法の研究では、誤答分析を行うことによって理解の過程が指導に生かされてきました。理科や社会の論理的な思考は、推論の正誤を検証することで指導に生かされてきました。すべての教科学習で「学ぶ」過程が重視されるわけではありませんから、先生の資質によって軽重が生じてしまいました。成績優秀だった先生は「何でこんな簡単なことが分からんのか。」というせりふをはきたくなるのです。
 本来「学ぶ」時には試行錯誤を繰り返し、失敗が筋道立てた論理を強固にします。「予想を検証したら間違いに気づいた。」「簡単に結果が分かると思って調査したけど、行き詰まった。」などの失敗の過程は、レールを引かれて指示通りにやってないからこそ必ず行き当たることだと思います。
 総合的な学習では、必ず失敗や誤りをくぐる場面を用意していなくても表れます。結果の追試という「学び」は総合的な学習ではありませんから、失敗がきちんと見える総合的な学習は「やらせ」ではないという評価が下せます。また、体験や活動だけで終わってないから、失敗があるといえます。
 知識偏重の一番の弊害は、知識を獲得するための過程に関係なく、結果が分かっていればよかったという点です。記憶しているか、いないかということにつきてしまいます。例えていえば、九九を使いこなすことより、九九を間違いなく言えることの方が優先順位が高くなって、丸暗記が至上命題になってしまうような場合です。九九を覚えていないと筆算ができないということを理解していれば、九九を「学ぶ」必然性はでてきます。過程を重視すれば指導の誤りは防げると考えられます。