障害児学級の総合
 障害児という書き方は適切でないのですが、一般的な呼び方としてただし書きをつけておきます。障害があるというのは、障害がない、健常だと思っている人から見た言葉だと私は認識しています。本人にとって、他人から障害があるということを知らされてもそれが当たり前のこと、普通のことと考えるだけです。ありのままの生き様を普通のこととして受け止めていくだけのことです。障害を感じさせる世の中はまだまだ未成熟といわざるを得ません。
 以上のような前提で、いわゆる障害児学級と呼ばれる子どもたちが総合的な学習にどのように取り組むのかを考えてみたいと思います。障害児学級は教科の枠を多少なりとも崩して個に応じた指導がされていますから、基本的な指導方針がはっきり作られていたら、困惑することはないでしょう。逆に、教科の枠にとらわれながら、少しでも普通学級の限定的な学力レベルにしようとしていたら、戸惑うのではないかと思います。学習内容を先生が先導してこなそうとするような体制の場合です。

 何に興味があるか、どんな学習や活動に意欲的になるか、その子の個性をつかんでありのままを受け入れ学習を組み立てていかなければ学習が成立しにくい学級ですから、総合的な学習が毎時間といってもいいわけです。子どもの個性に応じて投げかけるものを模索すればよいのです。これまでの実践が即、生かされると思います。体の一部しか使えない、光を見ることができない、音を聞くことができない、概念が身についていない、集中力がない、興味関心の幅が狭い、言葉が発せない・・・これらの個性を個性ととらえることが先生にできるならば、否定的表現を肯定的表現にすべて変えられるはずです。その子がやってみたいことをできる方法で挑戦して、その子の可能性が伸びたとき、同時に自尊感情も育まれると思います。
 ごっこ遊び、ものづくり、探検・・・などテーマは個に応じることが十分可能な人数です。集団で学ぶよさをことさら強調して、普通学級でと思わないことです。それよりも学びの過程で人との関わりを意図していく方が、自然な流れのなかで必然性が生じると考えます。
 促進的な考えで学級を経営し、学年相応の基準を設けて、先生が一方的に意図する我慢とか忍耐とか従うとかの強制をしてきた側面があれば、方向転換を考えた方がいいと思います。我慢させることを否定しているのではありません。先生が目的を達成するための手段にすることだけを避けたいのです。学習や生活面で我慢や忍耐を個に応じて身につけさせることは必要なことです。最も取り組みやすい条件が整った子どもたちの個性を自他共に認めていける総合的な学習になることを期待します。
 もちろん、学習障害=LD、ADHDと判定されるような子どもたちも例外ではありません。学力の高い場合も往々にしてありますから、興味関心の方向を把握すれば学習への集中力は高まり、ネックとなっている部分に大きな変容を期待する可能性もあります。障害児が普通学級の中で共生をめざす場合は、何よりも人的な条件整備を視野に入れた指導体制が鍵になると予想されます。労せずしてT.T.が組めるぐらいにならないと困難は大きそうです。