興味関心
 総合的な学習に限らない話題になります。興味関心って何なのでしょう。そのあたりを過去にさかのぼって考えてみることで、総合的な学習の時間に取り上げる内容のあり方にも言及できればと思います。
 興味関心は1980年代ごろから強調されてきました。知識理解に目がいきすぎていた問題点を修正するために前面に押し出されたものです。知育偏重、詰め込み教育、育たない主体性・・・などの批判をかわすきっかけでした。もちろん、それ以前にも評価の観点には上がっていました。
 私たちが実生活で興味関心の所在を尋ねられたときは、教科の枠組みではなく文化の枠組みで考えているはずです。「国語が大好きで、おもしろいんですよ。」とはならず、「日本文学、中でも○○の作品がおもしろいですね。○○の作品はみな読みましたよ。」となるのが普通でしょう。星を見るのが好きな私は「理科が得意で詳しいんですね。」と言われることがあります。正直なところ「なんで星=理科なのかなあ。」と思ってしまいます。「いっぱひとからげに興味関心は判断できませんよ。」というのが、日常生活の中での普通の感覚だと思うのです。
 教育現場では、教科の枠の中で授業をとおして見えてくる子どもたちの興味関心を平均化しながら評価せざるを得ない現実があります。本来ならば、子どもの内面にちょっとだけ立ち入って、具体的に判断することが一番分かりやすいのです。物語文を読むことに興味を持っている、図形の円の不思議さに興味を持っている、キャラクターの模写に興味を持っている・・・など、好奇心が今どちらに向いているかを判断することは容易にできます。ところが、1学期の国語の興味関心がどれくらいかを客観的に判断することは難しいものがあります。「あいまいな評価をしている。」と批判されれば、「まったくおっしゃるとおりです。」としか言えません。
 興味関心の持ち方に一定の約束はありません。必ずしも自発的に興味関心が高まったとは言えない場合もあります。「分かる」、「できる」、「理解したい」、「できるようになりたい」という個人の思いから興味関心が高まることは多いかも知れません。しかし、先生の投げかけによって、あるいは友達に触発されてという、実態もあります。逆に負の思考として「分からない」、「できない」、「その気にならない」という思いが興味関心を失わせることもあります。要は、まんべんに何にでも興味関心を持たせることは至難のことであり、幅広い対象からいくつかを選別してのめり込んでいく子どもの姿を思い浮かべるほうが分かりやすいでしょう。
 生涯にわたって興味関心を持てることが複数あれば、充実した日々を送ることができると思います。そうなるためには、興味関心と出会わせる仕掛けを先生自身が持つことが大事です。先生が用意する仕掛けは限られるでしょうが、その仕掛けを示さずに興味関心を評価することは避けたいところです。様々な出会いの中から、のめり込んでいく過程は個人に任されます。これまで、先生の豊かな教養、あるいは個性的な教養は、子どもたちの興味関心を高めたり、広げたりすることに大いに役立ってきたはずです。
 教科ごとに興味関心を判断するより、具体的な視点で見定めるほうが子どもにとっても先生にとっても意味あるものになると考えます。そうすることによって、子どもの能動的な興味関心の的をつかみ、伸びる方向を見えやすくしそうです。つまり、総合的な学習の方が、子ども自身の本来の興味関心をとらえやすいと考えます。