カテゴリー論
 総合的な学習の時間に取り上げられた学びの内容をカテゴリーで分ける意味があるかどうかはさておいて、学びのカテゴリーを重なりをとおして見ておくことは意味があると考えます。なぜならば、カテゴリーをあてはめたとき、しばしば先入観として矮小化された見方が出てくるからです。
 学問体系そのものが再編成されてきている現状がありますから、従来の呼称に固執することは得策ではないでしょう。教育現場でも過去になかったものが出てきていますから、「学び」として見据えていく呼称を考えたいところです。
「人とくらし」のカテゴリーとして大きな枠組みは「人権」「環境」やや小さくなる枠組みとして「奉仕」「福祉」「情報」「平和」「健康」「労働」「郷土」「自然」「地域交流」「芸能」「遊び」などが組み込めます。それぞれが独立した枠組みではなく、相互に重なりや関連がでてきます。国際理解、外国語の部分はしっくりおさまらないものを持っていますが、枠組みとしては「異文化交流」になるのではないかと考えられます。一つのキーワードをもとに内容を探っていけば、自然=自然科学=理科というような短絡的な発想はでにくいと考えます。
 「ものとくらし」のカテゴリーでは、「物づくり」「食づくり」「技づくり」など、直接生産を体験するところと生産を支えている技術の一部を体験するところがあります。人間が生きていくうえで常に考えていくことは、生産と消費にかかわる部分が大きいと思います。社会関係の中で、その部分が安心できるような仕組みになっていれば、解決すべき問題は少なくなります。人と人のかかわりは「ものとくらし」の中で螺旋状につながっていますから作ることだけを目的にすると、学びが見えにくくなると考えられます。

 作り手は人ですから、自給自足的な独立生活にはまりこまない限り、「人とくらし」の部分がからんできます。例えば、一部の企業の中に食と農をひとかたまりにして実践的な文献を数多く提供しています。作って、食べて、技を知的に修得するだけでは、自己満足に終わることも危惧されるのです。生きるためには人とのかかわりの部分を抜いてしまうと話になりません。いわゆる、体験だけで終わる取り組みになります。生産に携わりながら、生き方を磨いているのですから、誇りとしているその要にたどり着くことが肝心です。
 要は教科教育や学問のカテゴリーにとらわれず、言葉の持つ枠組みを再度定義することで、「学び」を体系化していけばよいのではないかと考えます。大学の中でも新たな学科が創造され、複合的な意味合いを持つものがふえてきています。

 一方、国立教育政策研究所 総括研究官 斎藤さんのところでは、体験の類型化と頻度の調査が行われていますが、頻度の多少を問題にすることなく、ここの体験からどんな「学び」が展開されているのかに注目したいと思います。やがては「学び」の体系化が総合的な学習の次のステップ=カリキュラムの再編へつながると予想します。