学びの意識改革
 「どうしてか分からない。」「どうすればいいのか分からない。」「学習課題って何のこと。」「何をしたいか見いだせない子どもがいる。」「助言したことさえできない、しない子どもがいる。」「課題と問題は違うの?」首をかしげるような様々な先生のつぶやきが聞こえてきます。意識改革をまだ自分のものにしていないのだなと実感してしまう場面に出くわします。
 意識改革というのは外部からの刺激がきっかけになることがあっても、他者を手段にして実現することはまずあり得ません。人権教育や同和教育でねらいとしていることを例にこれまで繰り返して述べてきましたが、意識改革をする場に出会っていないのだろうかと思ってしまいます。教育相談の考え方も同じような意識改革をねらっています。不登校やいじめ、非行を解消するための教育相談はありません。状況がどんな立場におかれていても、ありのままの存在を認めて人間関係を維持していく相手がいることを伝えるのが教育相談の目的になります。まちがっても、学校に登校させたり、いじめをやめさせたり、非行をやめさせたりすることにはつながりません。たまたま、信頼関係の構築にともなって問題が解消されたような事例が上がってきますが、自助努力と当人の意識改革がよい結果をもたらしたにすぎません。
 意識改革は自分自身が自分の問題としてしなければならないことです。言葉の理解だけでは実現しません。同和教育で「言ってはいけない言葉」を理解していても、意識が変わらなければ、思わぬところで「言ってはいけない言葉」が出てしまいます。なぜ言ってはいけないかを、意識のどこに問題があるから口をついて出るのか理解していないと意識改革したことになりません。問題点は他者にあるのではなく、自分自身のものの見方にあるわけです。そこから自分の課題が見えてきます。
 不登校の子どもに対して、なぜ学校に行かないかを追求して答えを得たとしても、学校に行くようになる答えにはなりません。往々にして理由が本人につかめないことで、問われることが苦痛にさえなってきます。おまじないのように共感的態度とか、受容的態度とかいわれるのは、社会的疎外の歯止めとして必要なことなのです。関係を断ち切って社会的に葬り、孤立させてしまえば問題として顕在化しなくなります。解決でも何でもない最悪の方法です。
 お分かりいただける方は、そろそろくどいと感じるようになるでしょう。そうなんです。自分自身の中にある不合理な問題点を自分自身が理解、納得、解消していかないと意識改革はおこりません。
 うまくいかないときに子どものせいにしたり、親のせいにしたり、準備物のせいにしたりして、自分自身を振り返らないでいると、自分の問題に気づかないですみます。意識改革の助けになる資質は、自分に対して謙虚であるということにつきると思います。そのことが自分の中にある問題点を自力解決していくことになると考えます。