総合的な学習と共生
 個別化を図るという話は以前にも書きましたが、一つのことだけを論議してもなかなか前に進みにくい傾向があります。そこで、共生ということについてもふれてみたいと思います。個を尊重することによって、個の集まりがよりよく生きようとする共生の考え方を培うことで個と集団がともに育つと、文部科学省サイドでは想定しています。
 個別化を図るというのは、一斉授業に慣れ親しんできた先生方にとってはかなり困難な考え方のようです。しかし、そこを乗り越えないと、指導方法を柔軟にしていくことはできそうにありません。それだけに何が意識変革のネックになっているのかを解明しなければならないようです。切り口として、共生という言葉を担ぎ出すことにしました。
 個人を尊重することはだれも否定しませんから、個が出発点になると考えて個人主義が未消化のまま入り込んだ結果、利己主義、今はやりの言葉で言えば「自己中(ジコチュウ)」をはびこらせた心配が現実に出ています。個が尊重されるということは他者となる個も尊重されなければならないという原則があります。つまり、自分と他人との関係において「私には関係のないことです。」という判断が、切り捨てなのか、かかわる理由がないのかはっきりさせなければなりません。無視するのか、義理なのか、興味関心がないのかを相手とのかかわりの中ではっきりさせることです。
 例えば、教室の中で一斉に子どもたちを見ているとき、先生の頭の中には比較の論理が強く働いています。一人ひとりを大切にという考え方は、個を尊重する論理ではなく、単に出遅れている子、戸惑っている子、先走っている子を選別しているに過ぎないのではないかと思うことがあります。どの子もめざすところにたどりつかせなければならないと考えて、できない子どもを支援するという大義名分が生まれてくるわけです。
 ところが本来の意味で一人ひとりを大切にするというとき、先生と子供の間には意思の確認が必要になってきます。先生がよかれと思って支援をしていても、安易に誘導する結果を招いたり、支援にならなかったりすることがあります。独善的な部分や手だて不足を論議する前に子どもとの対等な意思のつながりを常に考える必要があると思うのです。馴れ合いではない、上下関係ではないつながりです。
 一口に共生といっても、義理がはたらいたり、力関係がはたらいたり、上下意識がはたらいたりする中では実現が困難です。対等な人間関係を醸成していく中で実現されていくものですから、それを阻むものは大きいと思います。優越感が大きいからなのか、自尊心が強いからなのか・・・。自分の中にある阻むものを一つずつ見直すことで実現するだろうと考えます。つまり、人権教育の考え方が絡みます。
 もちろん、共生は学校教育だけに委ねられているものではありません。社会全体に浸透していくことで可能となるはずです。学校での学習が地域社会との接点となる部分が考えやすいですから、総合的な学習の時間の中にも大きくかかわっているわけです。