総合的な学習と総合学習
 総合商社と総合的な商社、総合レジャーランドと総合的なレジャーランド、総合理科と総合的な理科、などの比較材料をいくつかあげてみましたが、読み手のみなさんにとって微妙に意味合いが異なっていること感じられるでしょうか。冒頭の総合商社という言葉から想像するものは、ありとあらゆるものを取り扱っている商社になるでしょう。しかし、総合的な商社といわれるとたいていのものは扱っていますが、扱わないものもありますと受け止められるのではないかと思います。
 マスメディアの中においても総合的な学習と総合学習が混在していることはご存じのことと思います。言葉が長い年月をかけて熟成してきているはずなのに、あいまいな使い方をしているのか、意図的に使っているのか判断するすべはありません。「的」という言葉が抜けてしまうことで、何でもありというニュアンスで流されていくことに一抹の不安を私は感じてしまいます。
 生活科が創設される前に先行研究していた国立大学の付属小学校で環境科を創設するという実践がありました。理科・社会科という枠組みでいけば、環境科でカバーできそうなものですが、低学年にとって親しみやすい範疇になっているかどうかがネックです。生活科のほうが身近な広範囲のニュアンスを含んでいる言葉だということから命名されたようです。
 言葉が持っている範疇を手がかりに物事を考えていくのが通常の形になりますから、ささいなこととはいえ、なぜ文部科学省が「的な」を入れて文言を統一したかは意図があると考えられます。一つの理由は、教科名ではなく時間の枠組みの名称だからということがあげられます。イメージできる範疇はできる限り限定的にならないほうがいいと考えたと思われます。もう一つの理由は、総合に値する内容にならないものも学習内容に上がってくるだろうと予想したからだと思われます。

 総合的な学習ですから、すべてを常に網羅して学びを組み立てていく必要はないわけです。○○総合学習と銘打って限定的にカリキュラムが構築されるより、キーワード「生きる力」に吸い込まれていく多様な学習パッケージが構築されていくことを意図しているような気がします。○○総合学習と銘打ってしまうと先入観で内容がとらえられ、柔軟な学びの広がりを疎外してしまうこともあり得るでしょう。
 たかが名前と思われるかも知れませんが、人それぞれ言葉に対する認識は違いがあります。ですから、常に基本的なこととして論議されなくなると次第に食い違いが拡大されていきます。かつて当地では、民主教育、同和教育で考え方の対立を経験した経緯があります。そして、今、人権教育と変化することによって基本的な部分が忘れ去られないようにという危惧を背負っています。土台に何があるのか語られなくなったとき、形骸化してしまったという事実があることを経験したわけです。
 学習パッケージのネーミングに際しては、どのような範疇を意図しているのかという、学校独自の定義をしておかないと言葉だけが一人歩きをしてしまいます。簡潔に子どもにも分かりやすい定義であれば申し分ないことです。