総合的な学習の説明責任
 子どもが通学している学校の総合的な学習はいったいどうなっているんだろうかと、すべての保護者が関心を持って見ているとは限りません。通知表に事細かに子どもの様子を書き連ねたとしても、受験学力という点では意義が見いだせない保護者もいるわけです。削減された受験主要教科の成績をいかにして維持するかが関心事になってしまいます。あり得ない話ですが、受験の判定材料に「総合的な学習であなたは何を学びましたか?」というレポートが課されるようなことにでもなれば、話題騒然になるでしょう。
 このような現状で保護者に学力観をきちんと説明し、伝えていかないと学校教育の何を信頼すればよいのかというよりどころになるものが出てきません。総合的な学習の時間が本格的に始まって、確実に子どもたちの様子が変わりだしたという事実をつくり、保護者に対して説明していくことで学校が責任を果たしているという信頼関係が出てきます。

 このことは、初めて出てきたことではありません。これまでも教科領域の学習をとおして子どもたちが育まれてきた事実は、伝えてきたつもりに過ぎないというだけです。子どもが自ら生き方を決定していく過程をあらゆる角度から支援してきたことは今も昔も変わらないことです。車の両輪のようにという例えがあてはまるのも同じことです。片方の車輪を学校でしっかり回るようにしても、片方の車輪に家庭でブレーキをかけたり、逆に回したりしたのでは、前に進まず、同じところを旋回してしまいます。そうならないように働きかけてきたからこそ、学校教育において一定の成果が上がってきたはずです。
 新しいことが始まるというとらえ方ではなく、これまでの実績を見失わないように学校が自信を持って説明することで、自己中心的な一部の価値観に対抗していく必要があるだけだと思います。「内容が削減されたから、内容が簡単になりすぎたから学力が低下するかもしれない。では、学力補充をするように働きかけましょう。」という方法が答弁されるに至っては、これまでの学校の努力は踏みにじられているような気がします。学校を取り巻く様々な声に応えるべく対策的に取り組んでしまうと学校と学習塾の境界がなくなっていくおそれさえあります。
 あえて総合的な学習の時間で取り組んだことを保護者に説明する責任があるといいたいのは、数値化できない子どもの力を伝えないといけないからです。先生から保護者に対して文章や話し言葉で説明するだけでなく、学習場面の要所で子どもの様子を参観していただきながら、親子の対話の中で子どもの学びをさぐり、保護者が得た手応えを先生に返していくという流れです。子どもと先生と専門的、指導的立場の三者で指導法や支援のあり方などを話し合い、評価していくことも大切ですが、子ども、先生、保護者の三者で総合的な学習を評価しあっていくことも大切だと思うのです。そのために説明責任を果たすべく、どんな場で公開していくか構想を練っていきたいところです。