総合の評価と価値観
 絶対評価になったからというのではありませんが、主観的評価と客観的評価のはざまをいきつもどりつしながら、評価してきたことは昔も今も変わらないのではないでしょうか。
 知識や方法、手順はテストという方法で点数に表せますから、これまで手軽に使われてきました。また、技能とか作品については評価する先生の価値観に基づいて判断が下されますから、一般的にだれが見てもよいという規準をできる限り遵守してきたと思います。しかし、その規準が一般化できる根拠に乏しいまま、示された基準を鵜呑みにして評価してきたところは問題が残ります。感性をはかる物差しはあまりにも個性的です。作文、絵画、造形、音楽などは「きれい」「美しい」「感動的」「すぐれている」など何をもってしてそう決めるのかという困難さがつきまとってきました。さらに興味や関心・意欲といった項目が入ってきたころから、評価は困難さを増してきました。チェックリストやメモを作ったり、市販テストに頼ってみたりしても、行きつくところは先生の経験に基づくカンによって評価されるところが大きいでしょう。
 前置きが長くなりましたが、本題は評価基準云々ではなく、価値観ということです。文化が後世にまで残されてきた本質は、より多くの人間がすばらしいと認めることで生き残ってきました。生前に価値を認められなくとも、その後に認められたものもたくさんあるでしょう。結果的により多くの人間がそのすばらしさを認めることで、不動の価値観を得ることになります。
 感性、興味、関心、意欲といった情意面は価値観が集約されたところで評価が可能になってきます。一人の人間が基準や対象者を比較して判定することは、ステレオタイプの偏見を広げる要因になります。これは、負の社会意識が形成されてきた過程を歴史的にひもとけば実証できることです。生産者や職人、マイスターがよい物とは何かを見極めることができるのは、なぜ価値があるのかを知っているからに他なりません。
 プロだからこそ価値の高いものを見続けてきたのですが、中には迎合、利益によってゆがめられている事実があることは容易に理解していただけるでしょう。より多くの人がよいというものをよいと信じることが多い日本人は、絶対に近い価値観を持つことを避けてきました。そして、他人が自慢したり、手柄ばなしをしたりすることに対して冷ややかな視線を送り続けてきました。逆に他人の不幸を踏み台にすることを罪悪と思わない本音も時にはあります。自分でなくてよかったと・・・。
 くらしの中で何が価値あることなのか、一つひとつていねいに評価していくことで、まわりの人たちに左右されない判断を積み重ねていくことが求められていると思います。現実は評価をじゃまする既成の評価が渦巻いていますから並大抵のことではないでしょう。例えば「こわい人」と「厳しい人」、「考えがあまい」と「考えが柔軟」は似たもの同士であっても反対の価値観をそなえているわけです。「どちらともいえない」という中庸の考えも美徳のようにとらえられやすいですが、判断をつけず逃れているともとらえられるわけです。
 「なにがしかのめあてに向かって学ぶことがなぜ価値あることなのか」をふまえた評価基準を身につけていかなければならないと考えます。総合的な学習を進めているところで、先生は本当に価値あるものの判断を子どもたちにきちんと伝えていくことで、根拠のある評価が指導と一体になって下されることを期待します。