総合のカリキュラム再考
 初等教育資料2月号の座談会記事を読み進めていると、カリキュラムについては自分自身あいまいな理解ですましていることが多いと思いました。どんな分野でも定義づけというのは難しいもので、狭義、広義、自分流と使用者にとって都合よく説明されることが多いようです。それ故に正しく伝わっていかないこともあるのだと反省させられます。
 カリキュラムの定義づけの妥当性を検討するつもりはないのですが、参考までにネット上の検索でこれはというものを四つほど引用してみました。人それぞれなんだということが、おわかりいただけたらと思います。

『「カリキュラム」を、教育課程はもとより、教育目標、教育内容、各教科等の指導計画、授業時数の配当、教材や教具、指導方法、評価の仕方など、幅広くとらえています。(神奈川県立教育センター )』
『開発教育の考えるカリキュラムとは、従来のように教師が意図して計画するものではなく、意図する側(教師)と学ぶ側(生徒)とが共に創り出すものであり、いわば学習の過程(プロセス)そのものである。(『 社会科教育事典 』<日本社会科教育学会編、ぎょうせい、2000>)』
『カリキュラムとは授業を進めるための,年間計画,日案などの指導計画,指導案,教材・教具,学習素材・資料などです。(岡山県情報教育センター研修課長 平松茂)』
『「カリキュラム開発」で言うところの「カリキュラム」とは,児童生徒の学習を成り立たせている,いわば生きて働いて血となり肉となるような教育内容,即ち機能的に働いている教育内容のことを指している。(「教育展望」(1998.3)筑波大学 山口満)』

 さて、北俊夫氏は、総合的な学習の時間の本格実施を控えて「年間指導計画のよりどころとなる学校の規準をつくる」を教育現場の課題の一つとして指摘しています。つまり、「総合的な学習のカリキュラムを作る」といったとき、現場はいったい何をえがいたらいいのでしょうか。
 多様な学習活動が展開されても、学校として総合的な学習の時間に何をどう学習して、どんな子どもにしようとしているかを明示すれば事足りると思うのです。学級ごと、実践者ごとの話ではなく、学校全体としてのことです。これまでの実践が試行されているならば、どんな学習から、どんな力を育てようとしたかは明らかにしてきたわけですから、それらを束ねて一つの方向を示す作業が必要になります。やりっぱなしでない限り、構想、実践、評価はきちんと筋道立てて展開できますから、共通点を見いだしていけばできます。
 これまでに同和教育、人権教育、健康教育などでは、めざしている方向を明らかにするために全体構想をつくってきた経緯があります。この全体構想は、目標、めざす子ども像、重点項目、教科領域や組織との関連性などを組み立てて、学校がどんな子どもを育てようとしているのかを言い表したものです。総合的な学習のカリキュラムをつくるとき、参考になるはずです。
 要は、考えていく筋道が違うだけです。学習内容の枠組みがあらかじめあって、それらをどう関連づけて目標に到達しようとしているかを考えたのがこれまでの全体構想です。総合的な学習では、学習内容を開発しながら、人格の一部分をどのように形成するかを考えることになります。
 規準となる大きな到達目標があれば、実践や評価の際に「何をもってしてよしとするか」という根拠がはっきりするはずです。そして、一見バラバラで個性的な実践が勢揃いしていたとしても、それを集約した構想を作っておけば、学校が総合的な学習と教科教育で何をしようとしているのか、だれでも説明できるでしょう。