真似ではなく追試
 教育技術法則化の初期によく言われていたことです。開発者の実践では子どもたちが意欲的に活動するのに、真似をした先生は「ちっともよくなかった。」という話がありました。それとよく似ている話として、ある新聞の投書欄で総合的な学習を話題にした記事がありました。校外学習活動の支援をする保護者からのもので、「何かおかしい。」と思うような内容です。中学年のまちかど探険のテーマが昨年と同じで、歩くコースも問題とするところも全く同じであったというのです。前年にしたことをそのままコピーするように学習が流れていくことに疑問をいだかれたというものでした。
 同じことをしているのが、まちがっているとは思いません。先生も子どもも変わっているのに、同行している保護者から側面的に見られて「同じ流れになって、同じことをさせるのはどうして?」と疑問を持たれることが問題なのです。
 これから研究発表や実践報告が数多く飛び交うようになるとき、先生自身の興味関心に基づいて「できそうだ。」「やってみたい。」という思いがわき起こることは増えるだろうと予想されます。そのとき、単に活動の真似をして「うまくいかない。」という結果が見えたらどうでしょうか。「参考にならなかった」と切り捨てる前に、やっぱり先生自身が謙虚に反省してほしいと思うのです。
・目の前にいる子どもたちに合うように投げかけたか。
・教科の学習できちんと下地をつくっていたか。
・学級づくりは問題なかったか。
・学習の全体計画が子どもたちに伝わっていたか。
・子どもたちの問題意識を最大限引き出す場を設定したか。
・先生の思いと子どもの意識のずれをすりあわせる手だてはあったか。
・子どもが学ぶことを整理していたか。
・教えることについて整理していたか。
・個々の子どもに働きかける手だてはできていたか。
・子どもたちに話すことは端的になるよう準備されていたか。
・追試することの意味を理解していたか。
などを材料にして、先生が子どもたちにどのように働きかければいいか、子どもがすべきことは何なのか、明らかにしていただきたいところです。自らの力量を伸ばす努力をしないで、事例がよくないと結論づけることは、プロの教師がすることではありません。
 以前にも書きましたが、いいところだけをかっさらって、いかにもうまくいったと自己満足していたのでは開発者にはなれません。「いいとこどり」だけをしていると、最後には人間関係につまずくでしょう。真似るということは、学ぶことの本質に必ずあるのですから、真似はどんどんすればいいのです。しかし、真似ができたからといって終わりではなく、真似られるにあたいする新たなものを生み出して欲しいものです。
 先生の意識改革のネックとなる部分はほかにもあります。個に応じた指導=個別指導の徹底をすればいい、一斉指導からの脱却=小集団学習を取り入れればいい、という短絡的な考えなどはその典型になるでしょう。