教えられなかった大人
 「教えられなかった。」という大人がいるからこそ、総合的な学習が必要だと考えることもできます。
 多かれ少なかれ、為政者でも個人でも不都合なことは教えない、知らせないという状況はずっと続いているかもしれません。その点、情報公開条例は知る権利を保障しはじめたということにもなるでしょう。危機管理の面からは、不都合を公表しないことで危機的状況に拍車をかけるという考え方もあります。
 「受験体制の中で、現代史はほとんど教えられなかった。」「同和問題は身近にないので、教えられなかった。」「性について口にすることはタブー視されていたので、教えられなかった。」学校現場が避けて通っていたかのような話をときおり耳にすることがあります。これらの教えられなかったという事実は、ほんとうに学校の問題なのか、教育行政の問題なのか、個人の問題なのか疑問に思うところです。
 これだけは指導する内容だと示していても、現場の判断で軽く扱ったり、削除したりする現実がほんとうに問題になるのだろうかということです。すべてを教えることができたとしても、いやたぶんそれは不可能なんですが、教えたけど理解しなかった子どもがいるだけだという押し問答に終わりそうなのです。教えたという一面の事実で責任を回避することも可能なわけです。
 学校現場で扱っていない話題は数多くあり、先生が教えなかったことを自ら学んできた大人は「教えられなかった。」などとは決していわないと思います。戦争中の残虐行為を社会科の時間に教えなくても、日本が何をしてきたかは自分で学ぶことが可能なのです。学ぶ中で残虐行為が非人道的だと考えるか、戦争そのものが非人道的な行為だからあり得ることだと考えるかは、個人個人の判断材料がどれだけそろっているかに関係します。少なくとも授業で取り扱って前者の考えが圧倒的だったとしても、多くの人と出会って話題にすると、異なった考えを持つ人もいるのです。

 何でもかんでも学校で教えれば事足りると考えることによって、学校は学習指導要領の枠をはるかに越えた指導内容を意識して引き受けさせられてきました。作品募集といっしょで、募集要項を送って学校に依頼しておけば間違いないという、依頼心が重荷になってきたわけです。学校や子どもたちが主体的に判断して、取捨選択する傾向は出てきているのではないかと思います。
 「学んでいなかったことがある。」という自覚のもとに、必要に迫られて知識や経験を吸収していくことは、学校だけでなく、日常生活の中で常にしていかないといけないんだという考え方の仕組みが大切だと思います。まさに、総合的な学習の時間においては、「学び方を学ぶ」という仕組みがはっきりしています。きちんと取り組んでいけば、「教えられなかった」という大人は現れないことになるでしょう。ましてや、先生は「教えられなかった。」と言い訳して逃げることのできない職業です。分からないことは、研修しなければならないという法的規制によって、常に学ばなければならないのです。