いのちの学習素材再考
 ニワトリを育てて最終的に解体し、カレーにして食べる実践が一部の保護者からの反対によって取りやめになったことを新聞報道で読みました。このことが総合的な学習をしていくうえでマイナス要因になったり、迷いになったりしなければと思いました。
 新聞紙上のコメントでは、取り組みを否定するのではなく、保護者や周囲の理解を得ることが万全だったかどうかが指摘されていました。
 飼っているニワトリを解体して食べていたのは、私の経験では1950年代のことです。当時の様子は、肉とか卵は貴重な食料で、今のような流通状態ではありませんでした。もちろん、保存するための冷蔵庫が家庭に登場したのは1960年代ですから、なおさら蛋白源としての生鮮食品は、都会や産地以外では珍しかったわけです。そんな中でニワトリを解体するのはお祭りとか、正月とかめでたいときのとっておきの食材だったわけです。私も小学生時代にニワトリをさばいた経験を持っているのですから、間違いありません。
 ところが、今はどうでしょうか。これだけ新鮮で安全な食品が流通していたらかなりの人が、自らの手で命を絶って食材を用意することは経験していないことになります。貴重な体験になるということは確かなのですが、正当に受け入れられるかどうかは別の問題を乗り越えないといけません。
 植物や魚類だと問題にしない人でも、ことほ乳類、鳥類になると命を絶って食べることには抵抗を持つ人がいます。店で買って食べるのは何とも思っていない人たちの中にもそのように考える人がいるわけですから、いかに理解を得ることが難しいか、予想していただけると思います。牛肉を食べる人が、鯨を食べるのはけしからんというのがあります。宗教の教えとして肉を食べないというのもあります。それは、それで論争しても不毛の論争になりそうですが、「かわいがって育てていたものを食べるのはかわいそうという」倫理観みたいなものを理由にされると身動き取れなくなります。
 本来、ありとあらゆる命を食して、わが命を生きながらえさせているのは事実なのです。ただそこに、残酷だとか、かわいそうだという慈悲がおきるのは、命を持つ対象に食料以外の価値をも見いだしていることによるわけです。ですから、食糧難でひもじい思いがないかぎり、水槽で飼っている金魚を食べることはだれも決断しようとしないのです。ところが、お腹を空かせた猫やピラニアにとっては食料になるわけです。
 身近な食材は数多くありますから、何をもってして、命を考える材料になるかは「子どもたちが食料と認識している生き物」から取りかかる必要があるでしょう。狩猟が行われているのを見ることができる地域では、また受け止め方が違ってくると思います。地域の特性を考えて、実践を組み立てる意味を考え直す貴重な情報だと私は思いました。