絶対評価との接点
 これまでの相対評価を加味した絶対評価から絶対評価へと評価方法が変わることになりました。これから評価をどうするかという論議の前に考えておきたいことがあります。
 世間一般に評価という言葉はどのように理解されているでしょうか。人や物に対する評価は多くの場合、固定的で変動しにくいとらえ方をしていると考えます。例えば、同一の物ならどれをとっても当たりはずれがほとんどないことによって不動のよい評価を持ち続けている商品がたくさんあります。あるいは、人物評価の場合でも、この人はこういう特徴を備えていると判断された場合、ずっとその評価が固定化します。裏を返せば、人でも物でも固定された評価と違うものを見いだしたとき「意外だった。」という言葉がでることからも固定化は説明できます。
 同じように学校現場で行われている様々な評価は、流動的な場面ごとの評価を内に秘めて、表向きはトータルな評価で固定化が進んでしまいます。総合的な学習の評価は、トータルに数値化することは困難になりますから、個人個人の過程や成果が評価の対象になります。ところが、教科で絶対評価をするには到達目標を基準として評価しますから、成果だけが評価対象になることも考えられます。名目上絶対評価をしたように思いこみ、内実は相対的な比較評価が行われ続ける心配があります。そして、評価の信憑性を裏付けようと評価の値を一般化することは改革の流れに逆らっていると考えます。
 意識改革の一部分として評価を固定的にとらえないという考え方を広げていくことが重要だと思います。「だれがつけてもA君の国語はB段階だ。」という安堵感からは、Aくんの国語がA段階になるにはどんな指導や本人の努力が必要かという論議になりにくいわけです。
 形成的な評価の考えやポートフォリオの手法が話題になるのは、どんな力が伸びているかを的確にとらえていこうとしているからです。ただし、技能や理解することは、「できる」「できない」「分かっている」「分かっていない」のどちらかになるわけですから、何がどこまでできるかは何もさじ加減して評価する必要はありません。全員できれば、全員よい評価をすればいいわけです。「できない」「分かっていない」ことは、できるようにし、分かるようにしなければならないことは当然のことです。九九の七の段以上が唱えられない子どもが、2年生の段階で到達できなかったなら、到達できるまでずっとその子の学習課題として引き継がれなければなりません。能力の限界としてできないと判断しても、それは一時的なもので、常に可能性は残されています。
 総合的な学習の時間で子どもたちが学んだことを評価する方法が適切であれば、教科においても有効に生かされます。問題になるのは、正規分布で相対評価をされてきた親の世代の意識を変える労力が大変でしょう。