指導法はかわってきたか
 すべての授業で主体的な学習を促す方法を取り入れることはなかなか困難だとしても、週に1.2本は学習素材を用意して子どもの活動や発言を増やし、先生がサポート役に回れるようになったでしょうか。相変わらず先生が夢中になって、果ては黒板と対面していてもしゃべり続けているでしょうか。
 総合的な学習だけを開発すれば次年度からを乗り切ることができる保障はどこにもありません。専門教科だけを専門としていたのでは、子どもたちの学びの世界をつかむことができません。全学年、全教科のアウトラインをつかむことも要求されると思います。特に中高校では教科担任制ですから、学習内容の全体像をつかむことは大変なことだと思います。さらに小学校段階で何を学習しているかをつかんでおくことも重要なことになります。小学校の先生は全教科をつかみやすい条件にありますから、逆に中学校でどんなことを学習しているかが問題となります。もちろん、幼稚園、保育園も知っておくと視野が広がります。
 これらのことは、およそ総合的な学習の時間に関係がないように見えます。ところが、基礎的な学力、基本的な学力は教科教育の中でほとんど形成されていきます。基礎基本を、あらゆる教科指導の場で補完し合うことができれば効果は大きくなると考えられます。書くこと、話すことは国語だけでなく、どの教科においても鍛えられるものです。あるいは、数学は数学だけで教えきることができるというものでもありません。社会や理科で応用的に使うこともあるわけですから、関係ないと言い切れません。
 話を指導法にもどしますが、かつて「新学力観」という言葉が10年前に出されたとき、「新学力観は教室の前で止まっている。」「先生が主役ではない、子どもが主役だ。」「子どもの学習に対して支援しなければならない。」などと言われていました。思い出されるでしょうか。言葉だけが先行して、なかなか実践がついていかない現実があったことを。
 教科指導でも行事でも毎年同じことをすれば、楽はできます。しかし、マンネリ化して新鮮みはどんどん失われていきます。いつも目新しいものを創り出して、刺激を求めることはしんどいことなのですが、うまくいったときの満足感は格別のものになります。苦労しなければ、新たな創造はあり得ないとも言い切れるでしょう。指導法がかわるかどうかは、今までどうだったかという前例を持ち出しているといつまで経っても変化はありません。前例に頼らなくても指導の展開が考えられる力をつけていって欲しいと願っています。つまり、新製品を作ったり、営業をしたりするのと同じ感覚が要求されています。