総合的な学習の発問「食」
 この内容は○年生向きとか、この内容は○年生ではむずかしすぎるとか、○年生の教科に関連するから学年が前後するとかいった不安は学習内容の系統性が避けられない教科の学習では問題となります。学習指導要領の改訂のたびに2学年も3学年も学習内容が移行されて、指導が困難な内容ほど上の学年に押しやられていきました。
 しかし、総合的な学習には○年生の内容、○年生向きのテーマという根拠はどこにも出てきません。押しつけられるものがありませんから、先生の主観や先入観で取捨選択することは避けたいところです。ディベートの授業を実践されたことのある先生方ならば、比較的柔軟に子どもの発想を受け止められるのではないかと想像します。

「あなたは今日一日どんな命を食べましたか。」

 食べる物を育てようとするとき、子どもにとっての決め手になる動機は好きな物、美味しいものが一番です。珍しい物とか、育てやすいとか、多様な加工方法があるとかいった考えは、何らかの予備知識や経験がないと出にくいでしょう。選択肢を考えないまま、いきなり「○○を育ててみよう」と投げかけることはないでしょうか。子どもの育てたいという意識を大切にするならば、こういう発問は出てこないはずです。このことは、理科教材の栽培品目が拘束力をなくしていった経緯が物語っています。
 次の段階は栽培品目を検討する学習を促すことになります。

「生きていくためにどんなものを育ててみたいですか。」
「育て方を調べてみよう。」

 社会科で学習する米づくりを総合的な学習の時間に体験することはおもしろそうな材料です。しかし、子どもたちにとっても先生にとっても荷が重くなります。そんなことはないと感じているとしたら、育てている過程の要所要所を誰か他の人がやってのけていることに気づいていないはずです。放任した米づくりではほとんど収穫できません。
 地域の人に田んぼを借り、代かきまでをしていただき、田植えと稲刈りだけ子どもがしました、というのでは乏しい体験になるでしょう。これでは、苦労や問題点を見つける場がないのです。

「何のために育てたいのですか。」

 興味関心を持続させるきっかけがいります。○○を作って食べたいから育てたいという自発的、具体的な目的意識です。そのことがうまく育っていれば、いちいち水をささなくとも日々の観察による作物の変化に気づくのではないでしょうか。枯れることで、興味も枯れる子どもにすることなく、「なぜ枯れたのだと」と洞察できる子どもをめざしたいのです。