素材探ししていますか?
 教材という言葉に長年なじんできたことにより、無意識に「教える材料」として、当然のごとく受け止めてきたことと思います。商業ベースでも教材という言葉は商品価値を高めてきたところです。教材研究、教材開発、教材選定、副教材、教材提示、教材観など、どれをとっても使い慣れた教育界の空気のような存在の言葉になってきました。何気ない言葉を見過ごしているばかりに意識改革が進まないとしたら、じっくり考えて議論してみるだけの価値はあると考えます。
 
なぜ「教える材料」であってはいけないのか。13年前に個別化を研究していたときにぶつかった問題でした。教える内容が指導要領を解釈して作成された教科書に明示されてきました。そして、検定済みの採択された教科書を使用しなければならないという法的規制も明文化されています。追加も省略もついでに規制されたように受け止めて、教える内容をより多くの子どもに興味を持たせるように、より多くの子どもに消化させるようにしてきたことを反省しなければなりません。
 
多くの現場で、教科書の内容を逸脱したり、省略したりして扱っていることは、内緒でやっていることとはいえないでしょう。なのに「教える材料」という言葉の持つ意味を無頓着に受け入れてきたと私は考えています。このことから、どうしても「学ぶ材料」=学習素材あるいは学習材という言葉が必要になると主張してきました。なにをかいわんや、そんなことどっちだっていいという保守勢力に負け続けてきたものですから、やっぱり先生の発想は言葉から変えなくてはと思っているところです。
 
余談にはなりますが、「父兄」という言葉はあちこちの人間の頭の中に染みついています。同和教育を勉強してきたつもりの面々でも平気で使いますし、矛盾した言葉じゃないのという疑問のかけらもない人が数多くいます。「父兄」という言葉を聞くたびに、人の意識なんてその程度のものなんだと情けなく思うのです。「保護者」という適切な言葉があるのに、戦後56年経っても消滅しない言葉なんです。
 
「学ぶ材料」も「教える材料」も文化=カルチャーなのです。その価値に何ら違いはありません。単に価値を伝授するのか、価値を手抜きすることなく再現獲得するのかという違いがあるだけです。言い換えたら、丸暗記でいいのか、人がやったことをもう一回自分で試してみるのかという違いです。
 
総合的な学習は教育内容の再編成作業の前段だと前に申し上げました。このことが文部科学省のビジョンだととらえるか、教育の理念を実現していく踏み台になるととらえるかは先生方個人個人の教育観によるところが大きいと思います。学習することは過程的にも結果的にもおもしろくて楽しいものだという価値は教育の不易の部分だと私は思っています。おもしろくないからいやになるのはまことに単純明快な評価だと思いませんか?
 
子どもたちに投げかけられる学習素材をいかに多く持つことができるかが、総合的な学習の実践に取り組む先生の一番の課題となることを期待します。