芽を育てていますか?
 総合的な学習以前の問題になるかもしれませんが、子どもたちの「思い」や「願い」の芽を育てているだろうかという素朴な疑問がわいてくるときがあります。子ども自身が学習を広げていこうとする可能性を受け止めることができているならば、安心です。ただし、先生自身が全面的に受け止めていると思いこんでいるのでしたら、我が身を振り返ってほしいと思います。子どもの「思い」や「願い」を受け止めてこんな実践をしたら、子どもたちがこんな学習を展開しましたという、根拠のある事実を判断材料にして欲しいのです。
 ドリルで穴を開けるのはむずかしい。のこぎりで木を切るのはむずかしい。釘を打つのさえ冷や冷やものだ。揚げ物は危険だ。大人向けの検査方法は子どもには理解できない。パソコンが自由に使いこなせるわけがない。・・・などなど。先生自身ができないことを子どもにできるわけがないという先入観は、学習を広げるときの大きな壁になってしまいます。パソコンがむずかしくて、さわる気も起こらない先生がいる反面、調べたいことをインターネットでいとも簡単に調べてしまう子どもたちもいます。逆上がりができない先生がいる反面、コツさえ教えられると根気よく練習してできるようになる子どもたちがいます。ウサギの雄と雌を調べられない先生がいる反面、知的好奇心の旺盛な子どもはなんなく見分けてしまうことができます。
 先生も子どもも「できる」「できない」は自己中心的に判断してはいけないことだと思うのです。私なんか足元にも及ばないすごい人はいっぱいいるわけです。60の手習いで、ピアノをばりばり弾くようになった人もいます。可能性の芽を摘まないために、子どもたちの「思い」や「願い」を受け止めて、どのようにしたら実現できるかを考え実行するのが先生の仕事になるわけです。支援が支援になるかどうかという一例はここにもあります。
 総合的な学習に限って考えると、子どもたちが体験や活動をしているときに「これは自分が興味を持ってしている」という意識があれば学習を広げる芽が必ずあります。「しなければいけないのでやっている」という意識ならば、「やった」「できた」という結果が見えたところで活動は終息に向かうでしょう。芽を育てると子どもたちの可能性はぐんと広がるわけですから、先生の役割は大きいのです。子どもがやりたいことをやらせたらいいのだなと短絡的に考えてはいけません。先生が安全に配慮できるだけの知識を得ていく努力は必要です。そのことが総合的な学習のための教材研究のひとつになると考えます。また、先生は全知全能ではありませんから、不得手なところをカバーできる人脈、人材を確保していくのも教材研究のひとつになるでしょう。残念ながら手軽なマニュアルは転がっていません。