めざすところはどこですか?
 各校の実践をぽつりぽつりとひもといていると、総合的な学習を独自に創り上げることが至上命題のような感を持つものから、時間数の帳尻あわせになっているものまで・・・。多様な取り組みが見えてくるのですが、やっぱりバックグランドとよべるような骨組みが見えにくくなっています。生活科を創設して10年、総合的な学習の時間を創設して10年、10年後はいったいどうなると見定められていますか。伝統的な教科の時間を食いつぶして、新しい教科領域を創設していく意図はなんだと思いますか。そのあたりの動向を総合的な学習の時間が果たす役割と合わせて考えてみたいと思います。
1998年頃から各地の付属学校では、現行の教科枠を飛び越えたところで、新たなカリキュラムの創造を研究開発するようになってきました。横断的な考えで内容を統合したり、合科的に内容を関連づけたりして「学び」のためのカリキュラムを再構成し、完成度の高い全人教育をめざしていると考えられます。それまでにテーマを掲げて学習素材を開発し、教科書に表現されていない教育内容を創ってきたいきさつがあります。蓄積されたデーダベースを教科教育の内容とすりあわせ、教科をスリム化したり、再編成したりしていくだろうと予想しています。
先行研究をベースにあとを追いかけるようにして公立学校で仕組まれたのが、総合的な学習の時間です。総合的な学習は、学校独自のカリキュラムを構築するためのプログラムのユニットになっているわけです。ユニットの一つひとつにすべて漏らさず内容を網羅することは不可能ですから、特色になることを体系化し、全人教育の根幹にしていくことをねらっています。福祉とか環境とか国際理解とかを例示したのは、単にこれまで取り組まれてきた内容に重ねやすいようにしただけのことです。キャッチフレーズのように掲げられた「教育改革」、「生きる力」は表向きのパフォーマンスだと私は解釈しています。
 例えば米作りを体験しながら、食文化や環境問題を学ぶカリキュラムが構築されたならば、現行の5年社会科の農業生産、理科の発芽から受粉までの学習、家庭科のご飯を学習素材にした調理学習は統合してしまうことが可能になります。枝葉末節はどうなるのと心配しなくても、子どもたち一人ひとりが興味関心と能力に応じて広げて考えられるところまで進めたらいいわけです。
 こうして、教科の内容を総合的な学習の時間の中に組み込んでいくと教科教育の内容はどんどんスリムになっていきます。結果的に何が残るかというと基礎的、基本的な学習内容がより鮮明になってくるでしょう。  総合的な学習の時間をどのように創り出すかだけを当面の課題に据えていたら、50年も論議され試行錯誤されてきた教育実践は相変わらず進歩しないことになってしまいます。「主体的に生きる人間を育てる」ことは、私が子どものころから言われ続けてきたことなのです。「学ぶ」ことのおもしろさを職業人としての先生が子どもたちに展開していけるならば、最短の問題解決になると思います。教材開発の能力と指導力を持ち合わせた先生が職業人として生き残るでしょう。
 一方では、学校という組織体が、自信を持って学ぶ場を提供できるようにするための条件整備も並行して進んでいます。学校評議員制度、通学区域の弾力化、少人数学級、一年間使えない時間割、一単位時間の弾力化など、一つひとつが「主体的に生きる人間を育てる」ことにつながっていると考えられます。