通知表をどうしますか?
 公的でない学校独自の営みとして通知表はあります。少数派ですが、通知表のない学校もあります。純粋に到達度評価で個人内評価をしている学校もあります。相対評価と絶対評価を混合して、評定と到達度をもうけている学校もあります。たどり着く目標があるから通知表があると考える先生がいます。子どもたちの励みになるから通知表はあると考える先生もいます。通知表をつけても労多くして、あまり意味がなく形式的だという先生もいます。面倒くさいからないほうがいいというのは論外だと思うのですが、本音部分ではそう思っている先生もいるでしょう。
 
では、総合的な学習について通知表に一項目増やす必要があるかどうか考えてみます。教科については目標が示されています。しかし、教科学習の目的はあまり論議されません。ですから、基礎基本は何かという議論も起こりにくいでしょう。道徳や特別活動の枠組みにも目標は示されていますが、内容が多岐に渡ったり、評価になじまない心情面があったりするので評価は必要ないと言われ続けてきました。
 
ところが、総合的な学習の時間で扱う学習には、目安となる目標は示されていませんから、オープンエンドな目的の方を重視すべきだと思うのです。この部分を取り違えるとあたかも学校独自の教科的なカリキュラムが作られないといけないと主張する人が出てくるでしょう。文部省のキャッチフレーズ「生きる力」は子どもたちが到達する目標にはなりません。「生きる力」を身につけるためにという目的を掲げて学習を仕組むことが必要なわけです。
 
こうして考えを組み立てていくと学習の結果を評価して、価値観に優劣をつけることはできません。しかし、価値観をより高いものに育てていくことは必要なことです。通知表に示すことができるのは、どのような過程をとおって学習していったかという記録に限られると私は考えます。客観的な子ども自身の取り組んだ事実で十分だと思います。
 
かつて、通知表を改訂する話し合いの中でうんざりさせられたことがあります。文部省が例示した指導要録の項目に対応する通知表が合理的だと主張する先生がたくさんいました。通知表は指導要録を書くための補助簿なのかという解釈はとうてい受け入れられるものではありませんでした。法律にしばられない自由が通知表にはあるわけですから、先生の都合とか、親に分かりやすいとかの理由で通知表を作ってしまうのは、労多くして意味がないということになります。
 
一方、子どもにとっても自覚しやすいから、親も理解しやすいからという理由で段階的評価の方がすっきりするという先生もいます。客観的な基準で、一人ひとりを絶対的に評価できれば論議はおこりにくいでしょうが、現実は困難を極めています。数字で表すか、言葉で表すかは価値観を変換する方法ですから、評価の目的を論議して通知表の枠を作ってほしいと思います。