支援は支援になっていますか?
 平成元号になった頃から「留意点」の代わりに「支援」という言葉が頻繁に登場してきました。先生の立場でなく子どもの立場から学びを考えようとした結果だろうと思います。教えるという立場を前面に出さず、学ぶ子どもを支え、援助するから「支援」の方が、意図をはっきりさせられるという考えでした。
 しかし、言葉が変わったから中身まで変わるほど都合よくはいきませんでした。留意点であっても、子どもの学びを促す手だてとして書かれていれば十分通用します。要は先生の教育観にかかっていたわけです。子どもに対して指導するというのは、具体的にどのようなことをするのかをきちんと考えた先生ならば、言葉に固執するほどの問題ではないでしょう。教育の営みに理想像を描きながら実践されているならば、説得力のある指導方法を身につけてこられたと思います。教育理念といってもいいですし、教育哲学といってもいいでしょう。それがなかったら、やっぱり教師ではなく、教員になってしまいます。
 では、支援が支援になっているのかどうかをいかに先生自身は判断していけばいいのでしょうか。
? 子どもに示した手だてには、必ず反応があります。
? 子どもの反応に対しては客観的に先生自身が評価を下すことになります。
? 子どもが必要としていた支援だったかどうかという視点を持ちます。
? 必要としている子どもを把握する先生の力がいります。
? 必要な時期を見計らいます。
? 一人ひとりの子どもに対して個別に対応します。
 支援を必要とする子どもは、何をどうしたらよいか分からないがために困っています。子どもの思いを敏感に感じ取ることのできる先生は、一人ひとりの子どもをよく知っているはずです。子どもの内面の一部や性格の一部を知っていることにより、効果的な支援が行える一つの条件になります。効果的な支援が行える条件としては、手だてが豊富にあるということです。意味は同じでも、その子に理解できる言葉を選択していく先生自身の力も大きく影響するでしょう。そして、手だての有効性を積み上げるために客観的な評価を下さなければなりません。
 支援が支援にならないのは、どんなときでしょう。
? 子どもが必要としていた時期を逃していた。
? 手だてが子どもに受け入れられなかった。
? 手だてを伝える言葉の選択が適切でなかった。
? 子どものを反応を見ずに、先生の思いこみだけで行った。
? 個別に対応していなかった。
? 子どもの思考をじゃましてしまった。
何か子どもに対してしないといけないという先生の強迫観念が、ついつい子どもに対してお節介になったり、親切すぎたりすることはないでしょうか。子どもが自ら学びはじめると先生の出番は子どもが困ったときしかないわけです。そうすると暇を持て余した先生は、世話をやきすぎて子どもの思考をとぎれとぎれにしてしまうおそれがあります。学習の流れが身に付いているほとんどの子どもたちは、必要なときに質問をする自発的な行動がとれるようになるはずです