総合的な学習のゆくえ
 当コラムは、これにて最終号とします。足かけ10年近くになるところですが、ひたすら総合的な学習の時間が子どもたちにとって有益な学習となることを願って書き下ろしてきました。教科の学習でも総合的な学習でも、洗練されたねらいを掲げています。ねらいどおりにことが進めば、子どもたちは価値ある学習を積み上げていくことができます。現実は、理解不十分なまま計画された時間が費やされることが往々にしてあります。それ故に、多くの場面で先生の努力不足を指摘し、批判してきましたが、手応えは微々たるものだったでしょう。時間をかけて研修をしなければならないところを手抜きした教育行政の研修体制も批判すべきところです。教育再生会議の立ち上げも的はずれの改革を旗揚げし、現場の混乱を招いてしまった影響もあります。不運が重なってしまいました。
 ここ数年、学校現場からの反応はありません。学力向上や英語活動に振り回されて、総合は興味関心の薄い分野になってしまいました。その代わり、学習素材で提供した情報は、生き方を支える情報にもなりますから、挑戦してみようという方からの連絡は数多くいただきました。大した手間はいらず、せっせと種子を提供してきました。子どもたち同様、その後談はなかなかやってこず、寂しさを感じます。つながりを維持するためにはこちらからの働きかけが必要であり、そのための寸暇が確保しにくい事情がありました。
 サイトそのものは閉鎖しません。検索で行き当たることがあれば、自由に閲覧できるように維持しておきます。筆者も教職の世界から身をひく時期が迫ってきており、サイト運営も転換を図っていくつもりです。これまで、自分が描いてきた生き方を別の分野で展開し、生活のための利潤を上げるつもりです。情報伝達手段を生かせば、引き続き里山で暮らしていくことが一番楽しめます。
 一過性の総合的な学習をしていると、人と人のつながりも一過性になってしまいやすい傾向があります。取り組んだことが、生活の中で糧となり、ネットワークになれば心強いことです。成長とともに住み慣れた場所を離れることはよくあることです。しかし、住み慣れたところに20代で戻るのと60代で戻るのとでは全く、価値観も意味も違ってきます。都合のいいところだけをつまみ食いしていくような生き方は、必ず周囲から白い目で見られ、はじかれやすくなります。世論に振り回されず、自ら切り開いていく力があれば、性差も地域差も影響しません。しかし、年齢差や経験の差は縮めることが困難なだけに、時機を逸すると一過性の取り組みになってしまいます。
 農業が面白いから定年後にやり始めた方は、せいぜい15〜20年しかできません。持続可能な循環型地域社会を構築しようとしても無理があるのです。総合的な学習の興味深いところは、学習の場で世代間交流ができます。学校と地域社会がつながれば、文化と伝統を受け継ぐこともできるのです。定住農耕がじわじわと崩れていく現実は将来のことではなく、目の前の出来事です。回避できる学習として総合的な学習の時間が顕在化することを願っています。