学習素材「村づくり」
 これまで町づくりは取り上げたのですが、村づくりは抜け落ちていました。小規模集落が少子高齢化となり、限界集落という言葉も登場しています。何もしなければ自然消滅していきそうな村について学ぶことは、少数派の学習素材ということになります。村の消滅よりも先に学校がなくなるという変化に見舞われているところも数多くあるでしょう。しかし、極小規模の学校は、まだまだ残っていることも事実です。
 村という限定された地域素材は先人の生きる力に学ぶところが大きくなります。先人は原野を開墾し、生活を維持するために住み着き、「住めば都」という言葉に定住が象徴されます。生活の基盤は表向き米づくりです。租税としての米に付随して、生きるための農業が主体となる時代背景があります。自由に移動して、必要なものを手に入れることが可能になってしまうと、その地に住み続ける価値を引き継ぐことは困難になります。その結果、村が消え去るのです。生産に携わることなく、貨幣経済の中で消費生活を営む人は、どこに住むのが便利かという価値観しか見いだせなくなっています。環境がよい、食料が生産できる、暇つぶしに困らないなどの条件を優先する方は、人が多く集まる町に固執する必要感は出てきません。定年後に村に舞い戻ったり、移住したりする多くの方々は、後者の理由を持っているからです。
 食料、水、燃料を確保できる安全な場所ならば、村は成立します。古老の聞き取りから村ができたころは、洪水で幾度となく川の流れも変わっていたことが分かります。定住するにあたっては、2代、3代と継承していける条件を整え、子どもが増えると田分けをして戸数を増やしてきました。村が繁栄するとともに村落共同体としての地縁関係が強固なものになります。基本は食べるものを作るから始まり、余剰生産から道具を整えるという流れでした。専業は少数派だった時代を経て、兼業の形態が大きく変化することで町の繁栄が進んでしまいました。食べるものを作るのは人任せという生き方が多数派になってしまい、村を維持するのは困難になったわけです。
 村づくりが衰退した一番の原因は、自ら食べるものを自分で作るという生き方を尊重しないことによります。給料を得れば欲しいものは手にはいるという安心感というか、安易さを蔓延させることで、価値を見いだすことを怠ったのです。地産地消と農業経営の規模拡大は両立しにくいだけに、村づくりにはつながらず、村の自然消滅だけが進行しています。
 では、村づくりに引き込むためには何が必要になるでしょうか。自分が食べるものを人任せにしてよいかどうかという問題が入り口にあります。さらに、どうしても外部から手に入れなければならないものが分かっているかという問題があります。そのことをふまえて、自らのためにものを生産することの楽しみがつかめるならば、解決は早くなります。子どもたちは、ものを作ることの楽しみを体験的に理解していくことになります。食料生産が中心です。
 次に、なぜ、町ではなく、村なのか。それは、再生可能な循環型地域社会をえがいていくときに町では規模が大きくなりすぎ、宅地、農地、林地の確保ができないからです。村としての集落が形成されてきた歴史をひもとけば、合理的な考え方をつかむことができます。戦乱の世が治まり、人口が増加していく時代です。裏返せば、戦乱のころ、天変地異のころ、ものの流れが止まっても生き延びてきた生活圏はどこにあったかという答と同じになります。
 生きることと豊かさは、普遍的な考え方として、楽しさや喜びのあるくらしだと私は考えるようになりました。娯楽はくらしに潤いを与えるものの、楽しさや喜びの本質になるとは限らないのです。時の流れに身を任せつつ、生きていてよかったと思える価値観を追求していくうえで、総合的な学習は多くの土台を提供できる学びになると思います。