学ぶとは〜アサガオの栽培〜
 低学年理科がなくなり生活科になっても相変わらずアサガオを育てています。草花の種類は数多くあるのに、なぜアサガオなのでしょう。それにはいくつか理由があります。育てやすい、栽培時期が適している、手がかからない、花と実が確実につくなど栽培の容易さがあります。さらに鉢植えでも手軽に栽培でき、長い期間花が咲き続けるよさもあります。そのうえ、葉の数、花の数、種の数など算数に関わる学習素材も含まれています。
 植物を育てるときに必ず教えることがあります。生育条件の中でどうしても避けて通れないのは水だけです。空気や日光、温度、肥料などは低学年の段階では説明を必要としません。しかし、魔法の薬として肥料だけは気になる材料として伝わっていきます。水やりをしないとアサガオは発芽しない、育たないということを教え、実行させることになります。問題なのは、水をやったのに発芽しないという結果が出たとき、再び教えることがあります。種が吸水しなかった、種を深く埋めすぎた、未熟もしくは不良の種であったなどの知識を分かりやすく伝えることで、子どもなりに納得します。一粒だけでなく、いくつか埋めるのは、発芽しない種があるかもしれないという予測を教えることになります。
 低学年の子どもたちが、土にアサガオの種をまいて水やりをすると芽が出るという過程を学び取るには経験が乏しすぎます。それよりも、変化に気づく観察眼が学ぶことを促すことになります。水をやり続ける子どもたちを励ますのは先生の役目ですが、水やりを忘れている子どもの代行をする必要はありません。「芽が出ている。」という発見を子ども自らがすることで、教えられたことに確信を得るわけです。「土が盛り上がっているからもうすぐ芽が出る。」という気づきが観察眼によって新たな学びになります。芽が出ていなくても変化から推理できるのは、知識ではなく事実の過程を学び取ることによって可能だといえます。
 このような学びを大切に他の子どもたちに広げていくことで、前と違うことがおきていないか、という観点が形成されます。さらに葉の数が増えていくと継続的な観察が身に付いていきます。そして、つぼみが付けば次のつぼみがどこに現れるかを推理できるのは、事実を継続的に観察してきたことによります。観点を教えていないと結果だけが記録に残っていきます。葉が何枚になった、花がいくつ咲いた、種がいくつできたなどの数量的な結果です。先生が観察の意味をとらえていないと、教え込むだけに終わってしまいます。

 先日、退職してしばらくたっておられる先生と話す機会がありました。「先生方は、学習と勉強をきちんと使い分けられていますか?」という話です。まさに学ぶと教えるの話そのものです。アサガオを例に出せば、育て方は学習ではなく勉強です。観察は勉強ではなく学習です。観察の仕方は勉強でもあり、学習でもあります。普段何気なく使っていることばに対して、先生ならではの自身が求められています。先生が明確に理解しているならば、総合的な学習の時間においても無用な教え込みはなくなると思いますが、みなさまいかがでしょうか。