学ぶとは〜文〜
 小学校1年生段階で言葉から文を読み書きする学習が始まります。話し言葉を獲得すれば、文の読み書きも連動して身に付きそうに思うでしょうが、残念ながらその通りにはなりません。話すことと読み書きすることは似ていますが、脳の働きは異なっているのです。
 読み書きの鍵を握っているのは、前々回、話題にした文字です。文字から言葉を構成し、約束に従って言葉を組み合わせることで文ができあがります。約束だけ教えるのではなく、文を読み書きする流れの中で理解させることが大半です。音読、視写、聴写は自ら学ぶ方法として使っています。読み書きが未熟な段階では、何度となく修正を促しても身に付かないことがあります。それは文字と音が1対1で完全に対応するところまで学習ができていないことが原因です。
 「りんご」という実体を「りんご」と書き、「りんご」と発音する関係を教えることで、読み書きができるように学び取れば一つの概念が形成されます。教えたことを記憶するだけでは概念は形成されませんから、自発的な学びが大きな意味を持ってきます。ここに漢字が加わると「林檎」という意味を限定する文字が概念に加わります。
 文は、言葉が種類分けされることを意識することなく、主語と述語と修飾語で構成されています。子どもたちは、いちいち主語がこれで、述語がこうで、修飾語がこのようにくっついていると説明を受けず、大量の文に出会っていきます。教えられたことだけを吸収するのではなく、より多くの知識を自ら学んで身に付けていきます。
 さらに、知識を自ら学ぶ媒体で最も大きな役割を果たすのが書物です。読書は自ら学ぶ最も重要な学習素材です。映像と書物に差が出るのは、文字を媒体としているか否かです。百聞は一見にしかずという言葉が残されています。例えば、ニワトリを見たことがない人に、ニワトリの写真を見せることで新たな知識は追加されます。しかし、ニワトリに付随した諸々の知識は写真だけで伝えることはできません。文で解説された知識の方がはるかに多くなります。
 論語読みの論語知らずという言い伝えがあります。意味を理解していなくても、読み方を教え、暗唱すれば読むことはできます。国語の学習で読解とか、読み取るという領域があります。この学習は、学ぶ以外に方法はなく、教えられるのは先生が解釈したことを伝えたり、着目する言葉を示したりする程度です。論語の解釈を伝えたとしても、子どもが理解したことにはならないわけです。学問の基礎がここで培われています。ですから、学力調査で読解力が劣ると判定しても、教えて片づくことではないということになります。
 先生は、総合的な学習の時間でも、国語でも、どの部分で子どもが学ぶ営みをしているかを専門家として知っていることが要求されます。教育学の中で語り伝えられてきたことですから、素人からとやかく言われても動じない指導方針を持っていただきたいと思います。そのことがお分かりいただけたら、読書活動は重要な手段であり、インターネット情報より優れていると判断できると思います。同時に、入門期の国語は将来にわたって重要な礎になることも理解していただけるものと確信しています。