総合的な学習と学校行事
 教科の学習と総合的な学習の関連以外に、学校行事から総合的な学習につなげようとする動きもあり、考え込んでしまいました。特別活動という領域の中から総合的な学習に発展することは可能なのでしょうか。特別活動のねらいに立ち返ってみてもすんなり結びつくものが出てこないような気がしてなりません。
 
本来特別活動は、活動そのものがねらいとして完結する領域です。その活動の中でさらなる学習問題となることを子ども自身に見いださせるのは無理があるでしょう。特に行事は主体的な参加ということを意図することはできても、問題になることは計画の甘さであって、学習問題となる性質のものではありません。活動が全体の動きとしてうまくいかなかったという場合、活動の手順や準備などシナリオがしっかりしていたかどうかということです。
 
例えば修学旅行は社会科の発展、あるいは関連として組み立てられることが多いでしょう。資料で学習したことを実体験し、五感を使って知的財産を吸収していくことになります。子どもにとっては、絵で見たのがこの目の前にあるやつなんだという納得をしていく過程が主になると思います。史跡見学、歴史遺産見学、臨海体験、林間体験、スキー体験など現地に出向くことによって新たな問題が、子ども自身から出てくることはかなり無理があります。もしあるとしたら、問題を見つけやすい特徴のある現地体験と見通しのある投げかけがある場合だけでしょう。
 
また、中学校で広く行われるようになった職場体験も、特別活動にするか、学校裁量の時間にするか、といった時間的位置づけのみ取りざたされて実施されています。総合的な時間が設定されたから、時間は確保できたと考えるのはあまりにも安易なことです。職場体験のねらいは勤労体験や進路指導の枠組みにとどまっているとしたら、子ども自身から学習問題が広がっていくことはやはり困難でしょう。体験の後に感想を持つことで活動は完結してしまいます。
 特別活動や体験活動はそれだけで完結してしまうというところが鍵になります。子どもの意識の流れを考えてほしいのです。体験を通して問題をつかみ、つぎの活動への課題とするためには、ねらいを検討しなおした活動や体験でないと意味がないということになります。これが総合的な学習に期待されている意義なのです。もし、そのような学校行事を創造しようというなら、学校行事ではなくなってきているという矛盾を抱えてしまいます。
 
ところが、総合的な学習で取り組んできた成果発表を学年だけにとどめたくないという場合、学校行事で発表会を持つことは、意識の流れも計画の流れも不自然にはならないわけです。発表会から再び学習へとフィードバックすることは可能でしょう。例えば、人権学習の積み重ねとして作文や標語、ポスターなどを作成し、発表会を開催するとします。発表会で出た作文をもとに学習を学年段階に応じてさらに学習していくことができます。完結しない意識の流れがあるからこそ可能なテーマなのです。
 総合的な学習なら何でもありというのは、必要条件にはなりますが、十分条件は残念ながら満たしていません。何でもできるということは、創造する先生にとっては大切な魅力です。しかし、何をやっても総合的な学習になるということはありません。生きるために一生懸命取り組んだことが自己完結してしまうと生きるための気力は衰退してしまいます。完結せずに次々と課題が見つからこそ生きる気力が継続するわけです。
 
先生自身が学校独自の教科書を創り上げるつもりになって、総合的に考え、組み立てる力を持ってほしいところです。学校の教育目標は飾りじゃないんだという理解が進むと少しは違ってくるでしょう。