学ぶとは〜文字〜
 世界中を見渡すと、話し言葉だけで生活し、文字を持たない人たちがいます。私は、文字を持たない大人に対面したことはありません。しかし、文字を学ぶことの意味は、乳幼児を観察することで、理解できると考えています。最も接する時間の長い母親が言葉や文字を教えているから、話したり読んだりできるようになったと考えることには無理があります。乳幼児期は、聞いて,見ることによってまねをすることが学びになっています。話し言葉と文字に出会う環境が整っているから、まねをすることができるわけです。意図的に教え込むのではなく、繰り返し話しかけることによって話し言葉を獲得しています。オウムやインコがしゃべるのと同じ方法です。違うのは言葉の持つ意味を蓄積していくかいかないかです。
 1年生の段階で平仮名を教えることは先生でなくとも知っていることでしょう。本当に平仮名という文字を教えているだけで、教えられた子どもは読み書きができるようになっているのでしょうか。文字の形を教え、書き方を教え、子どもたちは一生懸命自分で形を整えてかけるように練習します。ところが同時に言葉を学び、言葉の意味を知っていきます。単に字を教えたから、字が書けるようになったのではありません。先生が教えているのは一部分であって、文字に付随した様々な情報は、子ども自身が学び取り、時間をかけて統合しているわけです。
 また、話し言葉と文字が対応することが理解できると、感性や理性が介在するようになります。乳幼児期に泣きわめくという行為には、おなかがすいた、おむつをかえてほしい、ねむりたい、痛いなど様々な欲求が含まれています。ところが、言葉や文字を獲得すると相手が理解できる言葉で自分の状況を知らせるようになります。
 文字の形、書き順、意味、文字を含む言葉などは先生が教えています。子どもは、教えられた情報とすでに持っている情報を整理し、新たな言葉を獲得することで学んでいます。教えられた情報とつきあわせる自らの情報がない子どもは、学ぶことを広げにくいため、遅れがちになってしまいます。語彙の少ない子どもは出遅れてしまうわけです。何が不足しているかというと、幼児期に言葉とものとが一対一の対応関係にあることを理解していく経験が不足しているのです。単純に言葉をたくさん覚えているという意味ではありません。語彙とともに知識が豊富になっていないと学んでいることにはなりません。
 学者と学者でない人、専門家と素人は知識の量が格段に違うのです。教えられる量より学ぶ量が格段に違うともいいかえられます。総合的な学習では、この知識の量が学ぶための基礎となるのです。