食育と総合のねらい
 食育の推進に絡んで総合的な学習の授業を参観する機会がありました。授業を見ながら、これでいいのかなという疑問がわいてくるような実践でした。そこで、食育のねらいとするところと総合的な学習の接点を探ってみました。食育基本法のねらいは前文のところにまとめられています。

食育基本法(平成十七年六月十七日法律第六十三号) 前文から抜粋
 子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要である。今、改めて、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている。もとより、食育はあらゆる世代の国民に必要なものであるが、子どもたちに対する食育は、心身の成長及び人格の形成に大きな影響を及ぼし、生涯にわたって健全な心と身体を培い豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるものである。
 一方、社会経済情勢がめまぐるしく変化し、日々忙しい生活を送る中で、人々は、毎日の「食」の大切さを忘れがちである。国民の食生活においては、栄養の偏り、不規則な食事、肥満や生活習慣病の増加、過度の痩身志向などの問題に加え、新たな「食」の安全上の問題や、「食」の海外への依存の問題が生じており、「食」に関する情報が社会に氾濫する中で、人々は、食生活の改善の面からも、「食」の安全の確保の面からも、自ら「食」のあり方を学ぶことが求められている。また、豊かな緑と水に恵まれた自然の下で先人からはぐくまれてきた、地域の多様性と豊かな味覚や文化の香りあふれる日本の「食」が失われる危機にある。


 要点をとらえるならば、自ら「食」のあり方を学ぶことが求められている、という部分に集約されます。その中身は、前段の、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得、の部分に現れています。
 参観した授業は、食に関する断片的な知識を収集して発表していました。知ることで自ら食のあり方を学ぶことにつながるといえるかどうかです。学年が異なる別の教室では、学級活動で知っているから、しているをねらった授業が展開されていました。
 総合的な学習で食育を取り上げるとき、子どもたちの問題意識をしっかり掘り起こしていないと、単なる知識の獲得に終わってしまうのではないかという気がしてなりません。子どもたちが日々の食生活の中で前文にあるような栄養の偏り、不規則な食事、肥満などに思い当たる節がないと興味関心は持続しません。さらに、これらの問題点を直接解明していくことは、学級活動や保健学習のねらいに沿うものになります。総合的な学習では、問題点と問題解決につながる活動が学びのきっかけになるよう仕組むことが大切だと思うのです。体験を通して学ぶしかけがなければ、単なる調べ学習となり、分かったことを情報交換するだけになります。つまり、総合的な学習ではなくなって、保健学習になってしまいます。
 体験を通して学ぶには,食べ物を自ら育てる体験が近道です。総合的に扱うことを念頭に置けば,作るだけ,食べるだけ,調べるだけに陥ることはないと思います。
 朝食を欠食している子どもならば,朝食の献立づくりを通して,育てる野菜を絞り込み,自分で育てた野菜で朝食を調理する一連の体験をくぐることができます。その中で,朝食をとらないとどんな悪影響があるのかという知識を得ることで,献立は意味あるものが考えられます。
 また,偏った献立とつり合いのとれた献立を比較する身近な素材として給食があります。日常の中で食べることは,他に依存する部分が多く,能動的に食に関わらないことが問題の背景にあります。他人が作ったもの食べる,他人が調理したものを食べるという現実は,かなりの比率で蔓延していることです。そこをひっくり返すしかけができないと、生きる力にはならないと私は考えています。
 公開授業を参観していてもう一つ気になることは情報源です。科学的根拠を示すという考え方は適切な視点だと思います。しかし,根拠となる情報に目を向けてほしいのです。インターネット上の情報は手軽に瞬時に検索でき,自分が必要とする内容と一致するかどうかだけで引き抜いてくることができます。情報モラルの中には,情報の信憑性を判断していく力も要求されます。厳選された図書情報と異なることを子どもたちに伝えていきたいところです。