総合の解説書・指導力
 第8章第1節 3 適切な指導の在り方 P98
 どのような体験活動を仕組み、どのような話し合いを行い、どのように考えを整理し、どのようにして表現し発信していくかなどは、まさに教師の指導性にかかる部分であり、児童の学習を活性化させ、発展させるためには欠かせない。こうした教師の指導性と児童の自発性・能動性とのバランスを保ち、それぞれを適切に位置付けることが豊かな総合的な学習の時間を生み出すことにつながる。
 そのためには、どのような児童観や教材観に立ち、どのような指導観をもって学習を展開していくかが問われる。学習を展開するに当たって、教師自身が明確な考えをもち、期待する学習の方向性や望ましい変容の姿を想定しておくことが不可欠である。学習活動のイメージをもつことで、どのような場面でどのように指導するのかが明らかになる。また、児童の望ましい変容の姿を想定しておくことで、学習状況に応じた適切な指導も可能になる。


 先生である以上、専門的な知識として備えていなければならない指導性、指導観ですが、実に曖昧で、確かな理論が取りざたされていないところです。代わりの狭義の言葉として教育技術があります。単に教育技術を身に付け、教え方が上手というだけで指導力があると判断するわけにはいきません。それぞれの先生の指導する力を評価しようと思っても、上手、下手だけでは言い表せないものです。指導力が低い、指導性が弱い、指導観がお粗末と判断されても、一部であり、一時的な側面をとらえての結果にすぎません。授業実践を参観すれば、授業についてのみの指導力はつかむことができます。しかし、授業の土台となる学級経営における指導力は、日々の積み重ねで現れてきます。先生は、授業で勝負するといいながら、授業の土台となる人間関係を育てていかなければなりません。
 曖昧な中にも、理念としてあるべき姿を先生方一人一人が描いていないと先生の自信とまではいかなくとも権威が落ちてしまいます。指導力の有無を計る決定的な物差しがないだけに「さすが先生」と思わせるだけの実践的な中身がほしいのです。言葉を裏返して考えれば、指導力不足の先生を判断する材料も曖昧で確固たるものがありません。しかし、教育活動や人間関係づくりに明らかな支障がいくつも出てくると不適格という判断に至るわけです。適切な指導がどんなことを指すのか、明確に言い表すことは容易ではないということになります。しかし、指導が行き届いていないと学級経営は維持されず、結果として日々の授業も成立しにくくなるという現実は確かにあります。
 先生の仕事の中に指導案を作り、授業を通して研修をする場があります。先生の世界だけで通用する専門的な研修方法です。上記の引用した事柄は、指導案の中でほぼ表現されつくします。指導案はお粗末だが、授業はすばらしいということにはなりにくいでしょう。ところが、指導案はすばらしいのに授業がお粗末になることはよくある話です。授業の台本になる指導案は指導力を端的に表している文章ですが、それが指導力のすべてではないことは納得していただけると思います。
 指導力は、総合的な能力といえます。理念も必要ですし、話術も求められます。子どもが反応していることに対応したやりとりも必要です。子どもに応じた手だてを持っておくことも必要です。先生が指導力のある人格者であることとプロの先生であることは同じことを意味していると思います。
 では、指導力があれば総合的な学習の時間は計画通り推進されるでしょうか。必ず進むとは言えません。根底に一つの理念が求められるのです。教えられて育つだけでなく、自ら学び取る力があることを認める指導観を持つことです。どちらかの考えでなく、両者を混在させながら子どもたちが育っていることを認めることです。先生が自ら考え方を認知し、実践しようとしない限り、上記で求められている指導力は全国津々浦々まで浸透しないでしょう。学びのモデルを持つことを提唱してきましたが、それを真似ただけではできないのです。到達している子どもの姿を描いたとしても、人は自ら学ぶことができるという理念がなかったら到達できません。