総合の解説書・教材ではいけない
 第8章第1節2 具体的で発展的な教材P97から
 充実した学習活動を展開し、学習を深め、児童に確かな力を育成するためには、適切な教材(学習材)が用意されていることが欠かせない。
 教材は、横断的・総合的な学習や探究的な学習として質の高い学習活動となるように、児童の学習を動機付けたり、方向付けたり、支えたりするものであることが望まれる。児童の身の回りの日常生活や社会にある事物や現象を適切に取り上げ、子どもにとって価値のある教材としていくことが重要である。


 ここまで読み進めてがっかりさせられてしまいました。せっかく積み上げてきたことが崩れ去って振り出しに戻ったような気分です。なぜ、教材にしてしまったのか、教材(学習材)としながら、以下の文章ではなぜ教材に変えてしまったのか。付属学校で先行研究されたことや問題解決学習の実践、個別化教育に取り組んできた成果を抜きにした安易な言葉の選択に大きな不満を感じています。
 私は学習素材という言葉でこれまで展開してきました。教育現場で市民権を得た言葉にまでは至ってないことは承知です。根拠に乏しいデータですが、グーグル検索にかけると学習素材は約6430000件、学習材は約726000件ヒットします。ヤフー検索にかけると学習素材は約171000件、学習材は約81400件ヒットします。教材、学習材、学習素材のいずれも差異のない曖昧な範疇の言葉として受け止められているからこそ、定義づけをして使い分けたいのが私の考えです。なぜ、学習素材という言葉に市民権が認められないかという理由は簡単です。一部の先生しか実践していないからです。
 教育行政に携わる官僚の方々は、言葉に厳密であるという評価はどうやら過去のことになってしまったようです。通達文書をみても統制がとれなくなっていることで納得できます。それぞれが好みの書き方で降りてくるようになってしまいました。意識改革を進めようとする根本の組織体が統制をとらなくなった結果、混乱を招きやすくなったと考えられます。
 教材とは字のごとく、教える材料です、知識を獲得させていくための手段としての材料なのです。これは前回のコラムと連動することで、教授するために教材が用意され、教科書が提供されています。学ぶには教材ではいけないのです。学ぶ材料は教材とは意味合いの違うところで選定していかないと使えません。教科書教材の中でも問題解決学習に使えるものは、限られています。その違いを理解できる先生でないと主体的な学びを促すような実践はあり得ないと私は考えています。
 読み砕いていけばいくほど、この第1節は矛盾に満ちた説得力に欠ける段落となりました。身近なところから見いだすことができる教材は数多くあるでしょうが、総合的な学習の時間に使えるのは学習素材になるものだけです。
 ところが、教材でも学習素材でもたいした違いはないと考える先生が大勢いることによって、総合的な学習への力のいれ具合が軽くなっています。言葉をおろそかにすることで、人間の感性や感覚は鈍くなっていくことを真摯に受け止めていただきたいと願っています。