総合の解説書・主体性の理解
 第8章第1節1 児童の主体性の重視P96から
 総合的な学習の時間の学習指導の第1の基本は,学び手としての児童の有能さを引き出し,児童の発想を大切にし育てる主体的,創造的な学習活動を展開することである。
 児童は本来,知的好奇心に富み,自ら課題を見付け,自ら学ぶ存在である。児童は,具体的な事実に直面したり様々な情報を得たりする中で,対象に強い興味や関心をもつ。また,実際に体験したり,調査したりして,繰り返し対象に働きかけることで,対象への思いを膨らませていく。さらに,児童は未知の世界を自らの力で切り開く有能な存在である。興味ある事象についての学習活動に取り組む児童は,納得するまで課題を追究し,本気になって考え続ける。この学習の過程において,児童は自ら課題を解決するための知識や技能を身に付け,それらを活用する力をはぐくんでいく。こうした児童がもつ本来の力を引き出し,それを支え,伸ばすように指導していくことが大切であり,そうした肯定的な児童観に立つことが欠かせない。

 総合的な学習の時間の原点がここにあります。何年もかけて教科教育の中でもいわれてきたことです。しかし、教育現場では圧倒的に教授する時間が多いため、なかなか受け入れられない考え方となってしまいました。興味関心がわき起こらない子どもにとって、知識を自ら獲得していくことはむずかしいことです。知識を得るための土台となる教育環境が整っていないところでは、知識が乏しくなります。そのことを見据えて、学校という場が大きな役割を果たしてきました。教えることで、子どもたちの知識量は増大して、学力も上がり、ゆるぎない考え方が長年維持されてきたのです。
 ところが、学校という場に足を踏み入れていない幼児の段階では、解説書にあるような学び方は普通に行われていることです。生活環境にあるものすべてが学習素材といえます。学ぶ材料がそろっている環境のもと、自ら知識を獲得する学びはごく当たり前のことになります。同和教育で語り継がれてきた差別の悪循環は、明快にそのことを示しています。劣悪な教育環境のもと、あるいは、教育環境がないに等しいような状態ならば、学びは積み重なりません。生きるために精一杯努力しなければ、命をつなぐことができないくらしが過去にあったわけです。地球規模でみれば、まだこの状況の中にある地域も存在しています。
 言葉を覚え、数の意味を理解し、自立しようと学んでいく幼児の姿がある一方で、幼児期から知識を与え続けようとする動きもあります。いずれの方法が、教育の目標に近づいているのか、教育の素人は別として、教育の専門家である先生は理解していただきたいところです。
 総合的な学習の時間が趣旨通りに定着しない一番の原因をあげるとしたら、私は解説書のこの部分の無理解にあると考えます。方法ではなく、基本的な考え方です。教育の素人は、何かにつけ問題点が生じると解決策は学校教育で対応できると考え、大きな声で主張していきます。そんなことを真に受けたら、先生という専門職は崩壊してしまいます。教えたいことをすべて教えるのが学校教育の役割ではありません。社会生活を営むあらゆる大人は子どもにとって手本でもあり、反面教師でもあることを自覚してほしいところです。極論すれば、「あんな大人にだけはなりたくない」と言える子どもに育てるのが、学校教育の役割の一面なのです。