総合的な学習と学力論
 総合的な学習が進むと学力が落ちるという一部の論調があります。分数の計算ができない高校生や大学生かいると声高に発表する先生もいます。前にも書きましたが、生活科が導入されて、学習規律がなっていない生徒が増えてきたという中学校の先生もいます。私からしてみれば、いい加減にしてほしいなと思う批判ばかりです。
 
そもそも高等教育で学生を選抜して入学させているのに、分数ができない生徒を入学させた入試選抜の方法もおかしいし、採算を重視する 入試制度そのものもおかしくなっているはずです。分数の計算ができない生徒が入学してきても、最終的に卒業認定をして高等教育が成立するのなら、分数の学習は大した価値がないという数学への反論にさえなりかねません。また、個に応じた学習へと流れが変わっているのに相変わらず一斉教授の形態しか描けないとしたら、社会の変化に乗り遅れた保守主義ではないでしょうか。
 
1988年に示された新学力観は浸透しませんでした。理由は簡単です。学力観の変更に入試制度が連動しなかったからです。業者テストを禁止したぐらいではてこ入れしたことにならなかったのです。選抜試験はしない、1年後に不適格者は容赦なく退学を勧告するそれぐらいの大きな変化がないと、どんな学力を生徒に求めているか生徒自身に理解させられないでしょう。
 
学力論は同和教育を熱心に研究してきた先生方には、今の文部省の官僚が描いている学力観を類似したものととらえることができると私は考えています。類似しているとあえていったのは、認識論と学問体系に沿っていない学力観だからです。また、認知心理学を学習したことのある先生方には、認識論の意味するところを理解していただけるものと思います。知的理解との違いは、行動がともなう理解と説明したらいいでしょうか。知り得たことをもとにして、思考、分析、追求、再試行、表現といった学習者の行動がともなう学力観を意味しています。個々の思想が形成されないと実現しない考え方になると思います。
 もし、総合的な学習によって学力が落ちるとしたら、総合的な学習が成立していないからでしょう。与えられた時間をこなすためにそれらしい活動で学習させたつもりの場合です。そして、学習内容のどんなことを基礎学力とするかをとらえることなく、着実に子どもに身につけさせなかった場合です。今も昔もそう変わっていないと思います。初等教育の基礎的な学力は、ほぼ4年生の半ばでできあがってしまいます。小学校3、4年の学習が最も重要な内容であることは、大幅に学習指導要領の内容が変わっていないだけに、戦後一貫していえることです。もう一つマスメディアによる比較データの信憑性です。知的側面だけを測定して優劣を発表するなら、当然学力が落ちるという結論が先に立ってしまいます。外国と比べても日本は優れていたのに、負けてきたという荒っぽい比較がまたおきるでしょう。数字では表しにくい学力をあえて数字にしようとするところに無理があります。客観的な比較ができないという前に、一人一人の子どもの生き方に目を向けていかないと変化はつかめないでしょう。
 
学力低下論の間違いを助けるのは、「総合的な活動」「総合的な体験」で止まってしまう動きだと予想します。学習という名称を使う以上、学習の結果が出ます。その結果を吟味する先生の価値観が問われています。正当な評価が下されていけば、総合的な学習で培われた学力は市民権を得た世論になるはずだと考えます。
 先生は教員という立場で終わっては、先生ではありません。教師という立場を維持しているから、先生とよばれるにふさわしいのだと我が身を反省しています。