総合的な学習の失策〜言葉足らず〜
 総合的な学習は、時間の名称でした。「生きる力」を看板に掲げて、学力観の仕上げをしようとする意図がありました。ところが、総合的な学習という名称だけが一人歩きをしてしまいました。総合的に「生きる力」を育んで、知識偏重の学力観を変えようとしたのに、「ゆとり教育」によって学力が低下したという横やりで、柱がゆらいでしまいました。対策を打ち出す前に、理念と時間の中身をきちんと絞り込んでおけば、混乱と後退を招くこともなく、教育のあり方が政治的に利用されることもなかったでしょう。
 かつて、総合的な学習の時間にたどり着く前に打ち出された「自己教育力」が行き詰まっていました。教育力の低下です。これは、学校だけでなく、家庭や地域の教育力も視野に入れていました。教育力が低下すると学校だけでは保障できませんから、社会生活を営む上でひずみが生じやすくなります。いわゆる問題行動が起こりやすくなります。時を同じくして、経済力も失速したものですから、教育が解決すべき問題を見誤ったと私は考えています。
 学力低下が問題だったのではないのです。教育力の低下が問題なのです。勉強は人に言われてするものではなく、自分でするものです。昔から変わらない考え方です。子どもを取り巻く大人は、子どもの言動に関心を持って、間違いを正し、考え方を伝えてきました。ところが、子どもは勉強だけしておけばいいという考え方が、ますます教育力を低下させたのです。当然、子どもたちの自立は進みません。大人にならない子どもみたいな大人が増えると、教育力は悪循環を繰り返してしまいます。
 学歴向上のために学力向上をねらい、学校で教えることだけで子どもの人格を評価すると現状のようになります。学力がついていないとか、常識のない学生が増えたと大学の先生がぼやく前に、なぜ子どもたちはこんなことになってしまったのか自問自答していただきたかったと思います。「ゆとり教育」に原因を求めた諸先生方は、なぜ自分から勉強しようとする学生が少なくなったかを見誤っていると考えます。
 土台となる基礎的な学力を子どもにつけることは当たり前のことであって、教育現場にとっては不易の部分です。現場にとっては、論議するようなことではありません。総合的な学習の時間は、国が打ち出した方針とはいえ、教育力を立て直すために「生きる力」を掲げ、具現化するための教育の営みの時間となります。教育現場に定着すれば、必ず将来に展望が持てる成果を上げることができます。
 教育力と学力のはき違えで様々な無駄が生じていることは、先生方が一番身にしみていることと思います。しかし、時間数が変わっても、指導要領の内容が変わっても、相変わらず昔と変わらない営みをしているのが現場だということもよくお分かりと思います。