学習素材「わら」
 コンバインの登場で、米づくりをしたときのわらは、ほとんどが土に返されるようになりました。しかし、必要とするところでは、ほそぼそとくらしの中でわらを利用しています。里山のくらしの中で培われてきたわらの利用は、語り伝えておかないと、知るものがいなくなりそうですので、記憶をたどっておきます。
 今や、米俵を見ることは、ほとんどないと思います。出荷段階では紙袋に入れますし、白米にしたものはプラスチックの袋になってしまいました。昭和30年代までは米を出荷するとき、わらで作った俵が使われていました。
 円筒形の周囲は「こも」といって、細めの縄を使い、交互にわらを編んだものです。筵(むしろ)ほど分厚くなっていません。底面の円の部分はわらを束ねて、細い縄で縫いながら丸い座布団のように作られています。最後に「こも」と底面を縫い合わせて円筒形の俵にします。1斗15kgの升で4杯、60kgを入れて1俵となります。ふたを縫い合わせ、胴回りを太めの縄で縛り、持ち運びやすく、米がこぼれないように仕上げます。米俵はわらだけでできています。
 収穫した穀類の乾燥は機械に頼るかブルーシートの上で行われています。昔から使われてきたのは筵(むしろ)です。畳1枚の大きさで、横幅が半間(約90cm)、縦の長さが1間(約180cm)になっています。筵ばたという木でできた機織りの道具がありました。これまた、わらだけでできています。
 米の収穫後に使う筵や俵は閑散期の作業でした。わらをそのまま縄にしたり、俵にしたりするのではなく、堅い部分を濡らして、わら打ちをし、しなやかにしてから使います。人が作ったものを買ってくるのではなく、我が家の材料を使い、自分で作るのが普通のくらしだったわけです。
 運動靴が日常的な履き物になっていた当時でも、運動会でわら草履をはいた記憶は残っています。作りたてのものをいきなり使うと皮がむけることもあり、鼻緒の部分に布切れを巻き付けたものをはいたこともあります。
 わら草履も縄とわらだけで編み上げ、道具は使いません。足の指に縄をかけ、編み込みます。わら草履の変形版として、わらじや足半(あしなか)というのもありました。鼻緒に細めの縄をつけ、くるぶしで締められるようにしたのが、わらじです。土踏まずまでしかないわら草履が足半です。わらの代わりに古着を裂いて布草履を作る活動がときおり報道されます。
 気候風土に合わせて履き物は作られますから、ヨーロッパの靴が必ずしも日本の気候風土に適合するとは限りません。しかし、着るものに連動して、下駄や草履は利用されず、湿気の多い時期に靴の中が蒸れてもがまんしてきたわけです。
 気候風土にからんで、畳もわらでできています。わらが手に入りにくい、重いという理由から、今時の畳の心材は発泡材に代わってしまいました。伝統的な畳は、わらをマット上に縫い固めてから、い草を編んだ茣蓙(ござ)でくるんでいるのです。
 私が小学校低学年のころまでは、祖母がわらで籠(かご)を作っていた記憶があります。雨具としての蓑(みの)もすべてわらでできていました。雪深い里山では、「わらぐつの中の神様」の作品でご存じの通りわら靴を作っていました。
 耕耘機やトラクターが登場するまでは、牛馬が耕していましたから、冬場の餌として刻んだわらや糠(ぬか)を使っていました。飼育小屋の中で常に必要な敷きわらも、最終的には堆肥となってから、田んぼに返していたのです。
 くらしの中で最も身近な材料であり、くらしを支えてきたわらゆえに、お飾りやしめ縄もわらで作っています。自らがわらを育てて収穫していますから、感謝の気持ちと豊作祈願は手に取ることができました。お飾りのもつ意味を感じ取ることができる人は、大変少なくなりました。本来の意味にあわせると、お飾りは買ってくるものではありません。
 以上のように、燃やして二酸化炭素を作らず、稲が作った酸素と土に分解されるときの二酸化炭素が帳消しになる循環が維持されていたことは、大切な遺産だと考えます。何年先になるかは言えません。やがて化石燃料が枯渇したとき、長年続いた里山のくらしが再来することは予見しておきたいと思います。そのためには、何をしていたかというくらしの中の知恵を後世に伝えておく必要を感じたのです。そして、体験として伝えるためには総合的な学習の時間が大きな役割を果たすでしょう。