総合的な学習と教科の発展学習
 合科的な扱いをしたり、教科の学習から関連させたりして総合的な学習を創り上げようとしている学校があると思います。「何でもあり」というのを制限するわけではないのですが、間違いをおこさないための指針をまとめてみました。
 例えば図工と国語を合体させて、絵手紙づくりの実践をした場合、絵は図工のねらいに沿い、手紙は国語のねらいに沿ったもので、できあがった作品は絵手紙を完成させるねらいに沿ったものになるでしょう。絵手紙を扱える教科がないから、仕組まれた策です。しかし、一人暮らしの高齢者に絵手紙をかいてボランティア活動の一つにしようと実践したときはどうなるでしょう。絵手紙は手段になり、高齢者と交流しながら理解をすすめることが大きなねらいになってきます。手段を達成するために絵と手紙の指導を図工と国語で実施した場合、これは描く、手紙を書くという基本的な学習の一つにすぎません。
 合科させて扱うことを総合的な学習につなげることは一見簡単に意識が流れているようなのですが、主になる目的がどこにあるのかをはっきりさせておかないと見失ってしまう恐れがあります。単純に結論づければ、時間を生み出すための方便にしか使えないのではないかと思います。
 つぎに教科の発展学習を総合的な学習に位置づけようとする場合、教科によっては多く展開されているのではないかと思います。社会科の公害やごみ処理の学習から、身近な環境問題を取り上げたり、世界の国々の学習から国際理解教育に発展させて、身近な外国人と交流することを取り上げたり、理科の水溶液の学習から酸性雨の問題を取り上げたりすることは、理にかなった実践のように見えてきます。
 
どの時点で教科の枠組みを取り払って広げていくかにかかっています。あくまで教科の枠組みから脱出しないで追求し、問題解決に取り組むと、狭い範囲のテーマの中で深みにはまる子どもと、深みから逃げて興味を失う子供を作り出す恐れがあります。発展させることは、引きずるのではなく、総合的な学習の枠組みの中で目的を再構成する作業が必ずいると考えます。だらだらと追求するだけで、やったつもりになることは、子どもにとって苦悩になる恐れもあるわけです。
 総合的な学習でねらうことをとらえなおして、教科のねらいを飛び越え、めざすものを新たに設定してほしいと思います。環境問題につなげるなら、地域にどんな環境問題が潜み、生活している地域の中でどんな解決につながる活動の展開が期待できるか、生活者としての考え方を見通していくことになります。そのことは理科や社会科の学習内容の範囲では扱えない広がりを意味していると思います。ごみの徹底分別をしたり、廃水浄化のために牛乳ビンをすすいだ水を毎日鉢植えに与えたりする日常的な実践につながるものであってほしいと思うのです。それが総合的な学習に取り組んだ成果として現れることを期待しています。