総合では指導力
 近ごろは教師力という造語が広まってしまいました。教育力から始まって、人間力、授業力、学校力と何でもかんでも力をつけて使われ出し、相変わらず分かったようで分からない言葉がとびかっています。
 そもそも指導力とは何かという問いでさえ、政界、経済界、教育界でそれぞれ異なっていますし、教育界の中でさえ十人十色に使われてきました。教育の現場で使われてきた指導力は、言葉を換えて先生の力量という言い方に象徴されます。つまり単一の能力、あるいは技術を示すものではないということです。
 指導には相手がいますから、一方的なものではなく指導する先生と指導される子どもたちとの間に良好な人間関係が求められます。これは、時間をかけなくとも、相互の関係が作られればいいわけです。出会って何日か過ごすことでできる場合もあれば、出会って数分とたたない間にできることもあります。そういう関係をつくることができなければ指導力は発揮する場がありません。相手が指導者であると認めなければ、指導力が備わっていても発揮できないわけです。
 次に求められるのは、指導者に値する知識と技能です。学歴の高低は関係がないと思っています。根拠となるデータは乏しいため、これまで出会った先生方を見ていての主観的なとらえ方です。いわゆる教え方がうまいというのは、話術もあるでしょうし、知性もあるでしょうし、人柄もあるでしょうし、総合的にはたらく先生の力量です。うまい先生に付随する影の力は、相手意識がきちんと備わっているということです。およそ、教え方が上手でない先生は、これらの否定的な部分が多くなるはずです。同じことを繰り返したり、長い説明をしたりすれば、話術が備わっているとはいえません。教材研究をおろそかにし、既成の知識だけで授業に望むならば、知性は磨かれていないことになります。相手が聞いていないようでも一方的に話し、相手の受け止め方を表情からつかもうとしないと効果的な指導は成り立たないわけです。
 これらのことをすべて備えるようにすることが、指導力を高める目的ではありません。自分自身の課題として不足するところを伸ばしていこうとする意欲と実際にやってみようとする行動力も求められているだけです。先生が先生とよばれるためには、必要不可欠の条件になるでしょう。
 新たな言葉で言い換えてみても、結局はこれまでの言葉の持つ意味をきちんと理解し、力をつけていくことが先生に求められていることは、今も昔も変わらないと思います。指導力が備わってくれば、授業力も向上します。授業力が向上すれば学校力も学校の教育力も向上します。指導の成果が上がれば、一人一人の子どもたちの人間力も高まり、最終的には生きる力が身につくはずです。
 なぜ、総合で指導力を求めるのかということについては、理由があります。教科書も赤本もない総合でこそ、先生に指導力があるのかどうかという真価が問われていると私は考えています。先生自ら目標を組み立て、指導内容を構成する力は、上に述べたような指導力がなければできません。現実には指導力の乏しい先生は、総合の時間が苦痛になるか、別のことに使って、したことにするような状況があると思います。た
だ、教室という開放的でない場で行われるため、表面化しにくいだけです。
 一つの言葉を大切にして、そこに含まれる意味を共有していくことは重要なことです。一般的に理解されにくくなったとか、興味・関心をもたせにくくなったというだけの動機で、英語をカタカナ語で表してみたり、新たな造語を広めようとしたりすることは、言葉の文化を混乱させてきました。大切にしないといけない言葉ほど他の言葉にすり替えてほしくないのです。教育関係の書籍の中でも、指導力といったときに定義づけは、様々な文言で示されます。とらえ方が多様なだけに共通の価値観を見いだして広めていくことがまじめに究めることになると思うのですが、いかがでしょう。
 やはり、私は指導力を向上させないと総合的な学習の時間は現場で充実しないと思っています。