総合では好奇心
 興味を持つ、関心を持つ、意欲を持つ・・・いずれにしても土台に好奇心がないと対象に意識は向きません。知的好奇心の度合いは数字で測れませんし、個人差があります。全くないということはあり得ません。
 概念が未熟な年齢であっても、目の前にあるものを不思議そうに見つめ、何だろうかというような顔をしているときに好奇心は働いています。心が対象に向かっているときです。一歩進んで、これは食べられるものだろうか、遊べるものだろうかと手にとっていじくりだしたとき興味や関心がわき起こり、謎解きをしたいと行動に移します。好奇心が幼いころから培われていれば、様々な対象に生涯向かい続けることができます。
 幼少期に「これは食べるものですよ。」「これはこうして遊ぶものですよ。」「これはさわらないほうがいいものですよ。」などと、先手を打って教え込むようなことが多くなると好奇心はつみ取られやすくなります。好奇心のわき起こる場面に他の年長者が介在することで、対話がおこり、言葉をとおして、対象の概念を作り上げていきます。放任するとうまくいきません。
 このような生活体験を豊富にしていない子どもたちを小学生として迎えたとき、無気力だと片付けられない現実があるわけです。枠組みが決められた教科の中では興味・関心・意欲を持たせる仕掛けをしない限り、学習活動に入り込まないことが多くなります。生活科や総合のように対象が幅広く選択できるよさを生かせば、好奇心から興味・関心へつなげる考え方を身につけさせることも可能になってきます。生活経験が乏しく実物に出会う機会の少なかった子どもたちほど、仕掛けを作って好奇心を高める練習が必要になります。
 かつて、鶏の足が4本だったり、切り身の魚から元の姿をえがけなかったりする子どもたちがいるという話がありました。では、鶏そのものを見せたり、切り身になる前の魚の姿を見せたりすれば問題はなくなるでしょうか?知的理解を補うだけでは他のことに波及しませんから、よい方法ではないと私は思います。
 身の回りにあるものから仕掛けを作ります。一番苦労しないで出せるのはブラックボックスです。箱の中身を少ないヒントで当てる、箱の中身をさわって当てる方法です。当てるだけならばゲームとして終わってしまいます。次の行動を促すような追求が、仕掛けとしているわけです。
 一握りの米粒を用意したとき、米と分かった子どもたちが好奇心を興味・関心にまでつなげていたら、この米にどんな質問をしてみたいか、どんなことを知りたいか、どうしてみたいかという考えを出すことができます。しかし、場合によっては次のような泥沼にはまることもあります。
「これは米です。」
「ふ〜ん、米なんだ。」
「この米にはたくさんの秘密が隠されています。」
「ふ〜ん、そうなの。」
「どこにでもある米ではないそうですよ。」
「ふ〜ん、それだけのこと。」
「食べてみたいと思いませんか?」
「べつに・・・。」
興味・関心がないという以前に好奇心がわき起こっていないから、次の提案は子ども自身考える必要がなくなります。
 それを避けるために、意外な展開を考えておく必要もあります。
「実は、この米を作った人を今日はお招きしています。どんなことをたずねてみたいか、用意しなさい。」
となると、対象にかかわる相手と話をしないといけない状況が生まれます。見ただけでは分からないことに考えをめぐらすきっかけができます。必ずしも作り手をお願いしなくてもいいことです。特別の米であることを示すものを用意すればいいことです。
 好奇心をかき立てるのは総合だけの役目ではありません。日頃の授業でも、短い説話でもブラックボックスを用意したり、なげかけ素材を用意したりして「何が出てくるんだろう?」「あれっ!」と思わせ続けることで考える練習は積み重ねられます。