総合の時間が減る
 いよいよ小学校の総合の時間は週1時間減り、英語学習に費やす方向が出てきました。総授業時間数の増加も固まってきています。あまりにも性急な修正は教育現場の空回りを加速させるだけに不安や不信が尾を引きそうです。
 私にとっては4回目の学習指導要領の改訂に巡り合わせることになります。その間に変わったことを大きな目でとらえると、教育の不易の部分が影を潜め、流行の部分がもてはやされてきたような印象です。そして、子どもたちに主体性をもとめながら、先生の主体性を大切にしなかった流れを実感します。平成7年10月に小学校の各教科で指導資料が文科省から発行されました。主体性を育てるような指導事例を満載したものの、教える側に簡単に浸透するはずはありません。方針が大きくゆらぎ始めたのは、このころからと思います。
 救われるのは、教育の流れが変だと感じる人々の意見が自由に発信できることです。例えば、教育再生民間会議の提言は、教育再生会議に対抗して、教育の不易の部分を再認識させる内容だと思います。そこで、以下に、日本教育新聞の記事と提言の一部を引用します。

「西欧諸国に追い付き、追い越すことを目標とする段階を脱し、世界をリードする先進国の1つとして、人々の多様な価値観を満たす高度な文化国家を自ら想像すべき段階に入っている。」
 自助の意欲と行動力にあふれた人、自分で目標を立てることができる人などの人物像を掲げ、これら人間力を最も効果的、直接的に育成することのできるカリキュラムが総合的な学習の時間として、その時間の充実と「総合」を生かせる教員の能力の向上を提言。
(日本教育新聞)

 ゆとり教育の問題点は、教える内容を削減したものの、個人のレベルに応じた授業の採用が不十分だったこと、そして、何よりも、人間力を付けるための授業として考案された総合的な学習の時間(生活科を含む。以下「総合学習」と略称。)が、いまだ発展途上にあることです。          総合学習は、子どもが自ら問題を発見し、複数の子どもが協力して、解決策を考え、行動して、解決に当たるという本来の過程を履行した時には、子ども自身はもちろん、保護者や指導した教師が驚くほど顕著に人間力を高める効果を上げています。また、総合学習の過程で問題解決のため用いた算数(数学)、国語、社会、理科その他の教科の知識も、生きたものとして身に付いています。さらに、子どもたちが協力して学習する過程で、自助と共助の精神を共に身に付けています。
(2007.1.24 子どもたちをのびのびと育てるための「教育再生民間会議」提言P7)

 教育の分野では、改革をしたら即結果が出るということはほとんどありません。指導を工夫したり、くぼいところに集中的に力を注いだりするとできなかった子どもができるようになることはよくあることです。しかし、その変化が人格形成にどのような影響を与え、好ましい形で社会生活を送る基盤になったのかと評価するには10年、20年後の状態を見るしかありません。
 例えば、家庭教育がおろそかになったまま、学習にだけ打ち込ませた結果は、20年後の子育てに悪影響をもたらしたのではないかと推測されます。これが原因であると断定できる事柄を示すことは困難です。教育全体の動き、社会情勢、家族構成の変化などが複合的にからんで悪影響が出たのであろうという推測です。
 社会に役立つ人間を育てるような目先のことを考えて教育に携わっている先生が圧倒的多数であったら、日本の教育は塾と化しているでしょう。小学校4年生までの内容を確実に身に付けていれば、通常の社会生活を営むのには何ら問題ありません。5年生以降は何のためにあるのか先生自身が理解しておいてほしいところです。なぜならば、意にそぐわない人々は排除されていくおそれがあるからです。
 医者が足りないから、先生が足りないから人材確保をしていく政策が場当たり的に出てくるならば、あらゆる職種に通用する人間力などおろそ
かになってしまいます。
 出発点をたどってみれば、国が国として豊かに維持されていくには何が必要なことかという確かな説得力のある考えが求められます。国の基本は農業だ。いやいや、国の基本は教育だ。そんなことより、国の基本は健康だ。安全保障の方が大事だ。優秀な人材を育てることだ。
 いま、この部分が揺らいでいるからこそ不見識な発言が横行していると私は考えています。読者諸氏のみなさんはいかがお考えでしょうか?