総合的な学習の教科書論
 総合的な学習に教科書はいらないと前言しました。ところが、9月ごろの朝日新聞の論壇記事に目が止まり、考えをまとめなおすことにしました。記事を流し読みしてメモを取らなかったので、きちんとした引用ができないことをまず断っておきます。要旨は、指導要録に完全準拠するために余分のことは書かず、不足することは絶対ないというスリムな教科書を批判するものでした。教育制度のシステムは全く違うのですが、アメリカのように指導内容に関連することはできるだけ、詳しく、広範に網羅している分厚い教科書を採用すべきだという主張でした。
 
確かにロサンゼルスの小学校の教科書の現物は日本の教科書のイメージとは全然ちがうものです。教えるための解説書というより、子どもに出会わせたい知的文化を合理的に寄せ集めたようなものです。教育内容を一元化して明示することは、一見全国同一レベルの教育水準を維持するという論理にかなっていると思われます。しかし、知的水準はともかく思考判断力は一元化できない部分を持っています。指導者の教育理念と教材の価値が複合して形成されるものです。
 戦後教育は、知的理解の側面に大きな成果をもたらし、諸外国にも注目され続けているわけです。裏を返せば、戦後の日本の教科書は、思考力や判断力を培うためには十分に機能を果たさなかった教科書だと結論づけられると思います。
 
典型的なつまずきは10年以上も前に露呈しています。高校の総合理科の教科書が供給できなかったことがあります。規制されない枠で作ればおもしろい個性的なものがでてきたのでしょうが、教育内容にしばられ、ページにしばられると総合的に理科のおもしろさを学ぶ教科書は作ることができなかったわけです。
 
教科書制度を改革しない限り、総合的な学習の教科書はいらないし、現行の生活科の教科書、3、4年の社会科の教科書も無駄になっているところが大きいと思います。生活科については、現場の一部の要求に応えて教科書を作らない方針を変更し作ってしまいました。だけど、教科書がなくても教育内容を組み立てることができる先生は、多分使うことは少ないと創造します。使っていない先生は違法行為をしていると主張されることもあります。こんな議論を繰り返すよりは、どんな教科書を創造すれば子どもの学びに役立つのかという出発点が大切だと私は思っています。
 
もし、自由な発想で総合的な学習に役立つ教科書を作るとしたらどんな内容が描けるでしょうか。知的文化を集大成していくという基本線を考えると、難しいことも簡単なこともどこまで解明されていて、どんなことが謎なのかを検索できる教科書がおもしろいなと思います。知的理解にかたよったのは、知的財産を一つの基準に照らして選別し、再現学習をしたり、記憶したりすることを重視したからです。考えたり、判断したりする材料を提供しようとすれば、結果が分からない投げかけが必要になるでしょう。
 
誤解してはいけないことがあります。知的文化を再現して学習したり、記憶したりすることは必要ないのではありません。基本的な知識があってこそ、新たなことを創造していくのですから、おろそかにしてはいけません。不可能を可能にし、新しいものを生み出す活力になる教科書なら歓迎できると思います。問題、解決方法、結論、子どもがつかんだ課題を網羅した学校独自の実践集が最短コースの教科書になりそうです。