総合の読み直し
 総合的な学習の時間が新設されて小中学校は6年目を迎えました。まだまだ、現場に定着したとはいえない状況が続く中、英語の時間が論議され、総合的な学習の時間の運用が拡大解釈されていくような流れが強くなっています。総合的な学習の時間を現場で推進しようとするとき、改めて趣旨が意味することを考え直してみました。
 「生きる力」という言葉に集約された中身として総合的に物事を考える必要性が出てきたのにはいきさつがあります。「総合知」というような造語も出てきましたが、そもそも教科の中身が削られていく中で、系統性や関連性を教科の中でつなげることができにくくなってしまいました。
 一番大きな変化は低学年の理科、社会の消滅と中高学年の理科、社会の中身が単発的なものになったことです。ダイナミックな自然界のつながりや通史的なとらえ方、社会のつながりなどが扱いにくくなった経緯があります。もっとも系統性が強いと言われている算数でも、教える側に学問としての総合的な見方をふまえた教材解釈が弱くなっています。また、国語に関しても言葉や漢字の系統性を強く意識することなく、単発的な扱いが増えています。つまり、教科書が薄くなり単元が減ったことによって、時間のやりくりや単元の軽重をつけることなく、まんべんにこなしてしまう先生が増えたと感じるのです。内容が盛りだくさんで、時間に余裕がないと自ずと軽重をつけ、内容の整理統合を考えないと最後まで行き着けなかったころは、先生の腕の見せ所があったわけです。
 公開授業がつまらなくなったとか、おもしろくないという傾向がささやかれています。メリハリのある授業、山場のある授業を組み立てる力は、先生に欠かせない資質です。あわせて、総合と教科の関連性だけでなく、教科間の関連性も視野に入れて教える中身を総合的にとらえる力が現場に必要とされていると考えます。中高校の教科担任制においては、教科の守備範囲を超えて全体像をとらえにくいだけに内容の削減の影響が大きく出ています。減らされると、学問体系としての総合的なとらえ方が教科の中だけで実現できにくいと考えてしまいます。柔軟に総合的な学習の時間と補完しあう考えなどは出てこないわけです。
 現場が教える中身を総合的にとらえない別の理由も見えてきます。「各学校が創意工夫して学習活動を定める」としているのに、柔軟性を欠くとらえ方があります。総則には、「例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題,児童の興味・関心に基づく課題,地域や学校の特色に応じた課題などについて」と示されています。これらをすべて網羅しようとする学校がまだあるのです。極端な場合、国際理解、情報、環境、福祉・健康の項目を必ず取り上げて振り分けないといけないと考えているような現場さえあります。単純に考えれば、趣旨と矛盾することはたやすく分かることです。しかし、現にあります。よりどころのない中で、独自に学習を作り出す労苦は大きなものです。安直な借り物の構想ではうまくいかず、筋道を立てて学校全体の動きを立て直すことに意欲を感じているところです。
 「総合」が「総合」になっているかという問いかけは、教科名に置き換えても同じことです。一つのカテゴリーの中で全体をとらえていく力を先生が身につけると大きく前進します。そのためには、まんべんにあらゆることに力を注ぐのではなく、ねらいを定めてものにしてほしいと先生方に願っています。手抜きではありません。間引くのです。
 国語と算数でまんべんな指導の弊害は多く見られます。すべての子どもに身に付けさせたいことと、全員達成できなくてもいいこととが区別できなくなっています。現行の指導要領は最低基準だから、すべての子どもが達成できなくてはいけないという神話が横行しています。その結果、子どもたちに「1年間の授業で何が一番楽しかったか。」「どの授業が一番印象に残っているか。」と問いかけても、子どもたちは考え込んで即答できないのではないかと危惧します。昔ながらの間引き運転を取り戻せば、現場のプロ意識も少しは向上するのではないかと思います。