学習素材「餅米」
 米作りで餅米を栽培すると餅だけになるという結末を数多く見てきました。餅つき大会だけを想像し、餅米を自分たちの手で作ったのだからこれしかないという感じです。
 私の幼少期の記憶の中には、餅にまつわる話題がたくさんあります。一地域の一家庭の出来事ながら、考えるヒントになるのではないかと思い書き連ねてみます。
 餅つき作業は年の暮れの一大イベントでした。そもそも餅つきは日常的な作業ではなく、祝儀、不祝儀の際の出し物の一つになっていました。何もないときに餅つきなどしないわけです。労力と手間が日常的ではありません。餅つきの一歩手前、蒸し上げるおこわでさえも特別の献立でした。
 餅つきの場面を見た人は、単純に蒸した餅米を臼に入れてついているだけの様子しか分かりません。前日から行われている洗米、浸水、当日の水切り、蒸し上げまでの手間は知らないのではないかと思います。ついて、丸めて、食べてしまえばお終いのような安直さの裏では、使った道具をきれいに洗って乾燥させ、片付けるという後始末も見えてこない部分です。このようないきさつを知っている方々ならば、ちょっと餅つきをという気軽さは決して持たないでしょう。
 では、ついた餅はどのように食されていくかを紹介します。まず、つきたての餅は一口大にちぎり、前もって作っておいた小豆餡にまぶして食べます。温度の高いつきたての餅をちぎるには、手を水で湿らせながら手早くちぎっていきます。甘さに飽きたときには、大根おろしに醤油をかけて食べるのも美味しい食べ方でした。今風にいうと「おろしぶっかけ餅」です。これらの食べ方は餅つき作業中の賄いになっていました。
 次に、お供え用の鏡餅や雑煮用の餅を作ります。つく人、ちぎる人、丸める人、蒸し加減を見る人と役割分担があり、力のない子どもは火の番と丸め役でした。白い餅ができあがると今度は、おやつになる非常食でした。一番の好物は大福のように小豆餡をくるんだ餅です。1か月ぐらいは保存できますから、おやつ時に火鉢の炭火で焼いて食べます。
 最後に豆と合わせたかき餅を作ります。豆がつぶれてしまうため、ほとんどつきません。ただひたすら杵でこね回すだけで仕上げていきます。かき餅は塩味と砂糖味の二種類で、豆の代わりに粟が入ることもありました。栗ではありません。粟です。ときにはきび餅の黍がはいることもありました。かき餅は、細長くまとめ、翌日薄切りにしていきます。ござの上で乾燥させると、数ヶ月保存できるおやつになります。急激に乾燥させるとひび割れますので、風通しの要領がいったようです。焼いて食べることが多かったのですが、揚げ物が手軽にできるようになると焼くことは少なくなりました。後には、このかき餅の固まりを厚切りにして、比較的早い期間で食べきることが多くなりました。
 我が家は兄弟だけでしたので、雛あられには縁がなかったのです。姉妹のある家庭では、赤や緑の染料を使って、賽の目に切ったあられ作りもしていたようです。節句を過ぎると締めくくりの餅つきが草餅作りです。ヨモギの芽を摘んで、あく抜きをし、餅につき込むだけのことです。
 このように12月から翌年3月までの一連の作業は、保存がある程度きく寒い時期の恒例行事でした。雑煮が地方によって様々な調理法で伝承されているのは、寒さの度合い、雪の量、雑穀の種類などによるのではないかと思います。雑煮といえば、ぜんざいという地域もあり、白みそ、赤みそ、醤油じたてという特徴が出ています。
 餅米のもう一つの行方は、粉にする方法です。ひき臼が活躍していた時代には、餅米を粉にして上新粉が作られました。これをもとに団子や餅に加工し、おやつにしていたのです。みたらし団子、桜餅などは上新粉から作られています。伝統的なおやつが加工業者によって大量生産されることで、餅米を原料にした家庭のおやつはすたれてしまったということになります。
 以上のような背景を先生が理解したうえで、餅米作りをしていかないと短絡的な一発打ち上げの行事を変えることはできないと思います。袋入りのおかきは、もともと家庭の味だったということです。中国南部から渡来してきた米も、本家本元ではどのように食されているのか興味深いところがあります。