総合の課題(重点のおき方、特別活動)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  組織的,計画的に行われるのが学校教育だが,教員に対する意識調査によると,総合的な学習の時間の「実施上の重点」の各項目のうち,重点を置かれているものは高いものでも60パーセントである。これでは学校は動かないのではないか。

○  小学校においては生活科をベースに総合が考えられてきたと思うが,中学校では特別活動をベースに発想されてきたと思う。中学生への意識調査で「仲良くなれた」とか「協力してやれた」という回答が出てくるのは,特別活動の基本的なねらいが根底にあり,そこから総合が作られたためだと思う。


 重点のおき方が低率になった要因は、一つだけ思い当たります。それは、現在の学習指導要領の本格実施が始まってまもなく、学力向上の声が大きくなるように煽られたからです。他のことをさておいても学力向上策が一番になってしまうのは、学校での取り組みがあたかも手抜かっていたような話に絞り込まれたことによります。
 学習指導要領の改訂にともない教育課程の編成を検討する中で、指導の重点も流れにそった変更が加えられていきます。それぞれの学校の教育課題に照らし合わせ、教科・領域を全体的にカバーできる指導の重点が設定されます。ところが、「基礎・基本」と「学力向上」の教育課題が一番といわれれば、その上に乗っかっている教科領域が揺らいでくるのです。「先生方、足下は大丈夫なんですか。」と言われて、「これまでやってきたことですから大丈夫。」と言い返せなかったのではないかと思います。
 足下をすくわれた中で、総合的な学習の時間の重点が深刻さを持って受け止められないのは自然な流れでしょう。教育界に限らず、あらゆるところで知識は専門的分野の深みにはまり、全体を見渡す考え方が乏しくなっています。そこにねらいを定めて、「総合知」というような言葉が付属学校から出てきた経緯もあります。全体を見渡して教育の営みをとらえ、その中で何に取り組むことが子どもたちにとって必要なことなのかを話題にすれば、「総合」における重点も重みを増してきたでしょう。
 先生の意識が低いから動かないのか、意識を高めることを手抜かったのか、意識を違うことに向けるような動きを作ってしまったのか、冷静に振り返って欲しいところです。目指していることをきちんと理解していたら、二者択一的な動きにはならないと言われるかもしれませんが、意図したとおりに伝わっていない現実を反省材料にすべきです。他にも同様の事態は起こっているのです。上から下へ伝えていくことはたやすいことではありません。一つの組織の中であっても伝わりにくいことがあり、結果的に危機を招くことにもなるわけです。
 教育のあり方が大きく変化したとき、変わったことだけを強調したのでは説明したことにならないと思うのです。変えたことが全体から見てどのように影響しあうかを伝えると意識もついていきます。総合的な学習について時間をかけ、研修の場をもち、新たな取り組みへの意欲を育てていない学校がかなりあるのも当然の成り行きです。学校現場だけでなく、それぞれの組織体が期待するように事が運んでいないと分かったとき、なぜそうなったかについて公に説明責任を果たさなければなりません。

 二つめの課題は、出発点が異なると、総合的な学習に対する理解の差が現れていることを示しています。生活科は教科です。特別活動は領域です。ところが、総合的な学習の時間は学習の時間です。教科でも領域でもない枠組みを趣旨にそってとらえたら、継承したり、まねたりする部分はないのに横断的、関連という言葉を都合よく解釈し、安易に総合的な学習を組み立ててしまったと考えられます。
 自治的な態度をねらう特別活動の延長線上に総合的な学習を組み立てられると、評価も連動してしまいます。総合的な学習は、学習であり活動ではないという理解があれば、どのようなねらいを設定すればよいのかという考えに至ります。ところが、生活科と似ている、教科の延長でも大丈夫だ、特活の延長でもいけるという思いこみでは、ねらいを検討するところまで行き着かないでしょう。
 学びを組み立てる基本は、ねらいと学習素材です。特別活動にもねらいはありますが、活動のねらいであり、学びのねらいではありません。体験で終わる、活動で終わるのは、学びのねらいを考えてないことによります。教科教育の中で、ていねいに学びを模索していた先生ならば、こんなことにはならないでしょう。ひたすら教えることに、そして、教え込むことに熱心な先生ほど学びのねらいに考えが及ばないわけです。
 まだまだ、総合的な学習の時間の趣旨とねらいを理解していない先生がいるのは事実です。理解したとしても、そこから認識に至るまでの道のりは険しいでしょう。教育観を変えるという自らの意識改革が要求されているのです。先生自身が日常の中で生き方を見いださない限り意識は変わらないのです。