総合の課題(教員養成、教育課程、指導力)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  教員養成にかかわって,大学で取得する必要単位の中に,総合的な学習に対応するものがあるのかという点は見ておく必要がある。現実問題として,大学で総合的な学習について教える教官が十分いないという問題がある。

○  現職研修にかかわって,教員の多くは,教育課程の編成というと,時数の確保という意識が強く,教育課程が横につながっているということについての検証の発想と方法論がない。

○  生徒の成果意識は先生方が何を心がけて授業をやっているかに関係する。教師がどういう授業をやっていいのかをはっきりわからずにいるから,中学生の意識調査によると「友達同士の会話が増えるようになってきた」,「他の人と協力しあったり,意見を交換し合うようになってきた」というレベルに留まっている。また,教師より親のほうがねらいなどに対する意識が高いということも問題である。


 大学では付属学校との絡みもあり、何らかの形で総合的な学習の時間に対応する講座が開設されていることは確かです。しかし、これから先生になろうとする学生が対象ですから、ようやく履修した新卒の先生が採用されるような流れです。採用数が徐々に増えてきたとはいえ、大半の学校に新採用の先生が配置されるわけではありませんし、職員構成の上では少人数です。影響力は大変乏しいということになります。
 もう一つの問題は、大学で学び、教員免許を取得したからといって、即戦力になるとは限らないということです。新採用の先生は学校現場で実務を積み重ねることによって仕事がこなせるようになります。学士の資格で仕事ができるのではなく、学士を取るために培ってきたことを仕事に生かすことになります。教育界に限らずどこの職場であっても以前から言われているとおりです。
 教員養成の中身にあまり期待していないように思われるかもしれませんが、必要なことを教えることと学び方を積み重ねることは異なります。校種を問わず、学び方を修めた人は、「教えられなかった。」というようなことを言わず、生涯学び続けると私は考えています。教えないと興味関心の幅は広がりませんから、各大学の対応は手抜かりなく進んでいると思います。

 教育課程を編成していく実務を教務主任が行っている学校は多いと思います。教育課程の編成をする時期に横のつながりまで考えて検討する余裕は乏しいのが現実です。なぜならば、授業日数が縛られているためにぎりぎりの時間数をやりくりすることに多くの時間をさいてしまい、全体の構想をつかんで検討していく部分は担当者任せになるからです。これは、学校管理規則が弾力的に示されるなら工夫の余地はあるものの、休業日の期間が授業日数を固定しているため、長年続いている問題点です。全国の大多数の学校が学期の始まりと終わりのを申し合わせたように同じにしているのは、上から下におりてきた法律によるからです
 現場に考える余地を与えるような裁量権がないまま、教育課程と年間指導計画が教育活動の全体像を示すまでに至らないことは当然のことです。ただし、時間の確保だけで終わっているのではなく、学校現場は全体像をとらえる努力をし続けています。
 二学期制を導入したところは、長期休業の切り崩しをしている場合が多くあると思います。その結果、時数確保に費やす労力が意識改革に振り向けられたはずです。その結果、指導内容の網の目構造がつかめたならば成果の一つになったでしょう。

 本当に先生のレベルが落ちたのだろうかという疑問は持ち続けています。保護者の多くが、高学歴になり、先生を見る目が厳しくなって、注文が多くなったことは確かです。我が子や関わりのある相手に自分の考えを伝えるゆとりがあるわけです。ところが、対等に意見を交わすのではなく、一方的に批判したり、自己中心的に対応を要求したりすることによって、先生が自信を喪失することが多くなったのではないかと思うのです。簡単に言うともはや先生は尊敬に値する人物ではないと思う保護者が多くなったといっても過言ではありません。
 政治の世界も、医療の世界も同様です。「先生頼みますよ!」という言葉は、信頼して任せる意味ではなく、「しっかりしてくださいよ。」という物言いになっている傾向が強いのではないでしょうか。つまり、信頼関係がぎこちないのです。いっぱしの批判はするけれども、どこまでも依存していく関係になっています。当てにならないと思えば、ばっさりと関係を断ち切る潔さも兼ね備えています。もちろん、すべての方がそうなっているとは思いません。相変わらず困ったことがあれば、対等に、親身になって話し合える先生は大勢いらっしゃるのです。
 先生は指導者です。指導者が指導者であるためには、ねらいや意図、意義を明確に持って、子どもを育てる方向が見えていなければなりません。その部分を指摘されたときにしどろもどろになる先生や自分はできていると思いこんでいる先生がいます。いわゆる力量のない先生を支えてきたのは、常に自らを伸ばそうとしてきた先生の意欲と他者への関わりです。
 先ほどの「しっかりしてくださいよ。」に立ち向かえる謙虚な自信を磨きあえる先生集団が必要なことだろうと思っています。わがままな考えが先行したり、批判に耐えられなくなると他人のせいにしたりするような先生を鍛えるためには、職場の中での磨き合いが一番です。それができる時間と場の確保が急務でしょう。そのためには、多忙といいながら不必要なことに時間をかけすぎていないか点検してみてほしいと思います。