総合の課題(先生の配置、組織的な実践)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  一部の教員に負担がかかっているといるということはないか。総合的な学習の時間を運営していくために教員はどのくらいの時間をそこに注がなくてはならないのか,どのように教員を配置すれば効果的な運営ができるか,現状のスタッフで,教科もやりながら,果たしてそれができるのかを考える必要がある。

○  総合的な学習は基本的に横軸であり,各教科の教員がその枠を超えて情報を共有しあって,学校全体で軸を決めるということが求められる。現状では,教員が個人で動いているという状況があるように思う。


 先生の配置は国が示した学級編制基準に従って定数法で定められています。ここ数年、自治体の独自基準や加配の仕組みによって窮屈さが緩和されてきた経緯はあります。現実には、一学級の定数に満たない少人数の学校もあれば、1000人を超える人数の学校もあるわけです。全国規模で見れば、少子化の結果、30人学級が話題にならない規模の学校も数多くあります。また、一人あたりの授業持ち時間をみても学校規模や校種によって異なります。大雑把なとらえ方になりますが、小、中、高、大と進むにつれて授業持ち時間は少なくなる傾向にあります。
 一学級の人数を減らし、加配を柔軟に行い、先生の数を増やせば教育現場の様々な問題は解決するという保障はどこにもありません。図書館司書、生徒指導、外国語教育、特別支援教育、食育などでは専任の先生が配置されましたが、すべての規模の学校に実現しているものではありません。司書教諭にあっては兼任で逃れられるような仕組みになっています。
 先生の専門職としての威厳を再構築するためにも、免許の更新制度を考える以前の問題が置き去りにされています。小学校の免許状は全教科になっていますが、中、高校では教科ごとになっており、高校ではさらに細分化された担当になってしまいます。例えば、国語の免許でありながら、専門は現代国語、古文、漢文、書道と分かれてしまい、国語ならば何でも可能という状況にはなっていません。教科以外のことに関しては、先生自身の経験と研修によって専門性を高めているのが現実です。
 学校という組織体の中にどのような専門性を持った先生が配置されると教育の分業がよい方向で動いていくのかを考えたいところです。総合的な学習の時間に限らず、問題となっている教育の課題は、おおかた免許教科以外のところでうごめいています。日常的に教科以外のことを共通に考えていく土壌は学校現場に乏しいといわざるを得ません。長年、特別活動の担当をしてきた先生が、それでは総合的な学習の時間もよろしくという動きの中で引き受けたならば、教科を横断的にとらえるというような考えは出にくいわけです。特別活動の延長線上に総合的な学習があることになります。中、高校で取り組まれている総合的な学習が特別活動的なニュアンスを持ってくる背景はこんなところにあります。
 小学校では、学級数が先生の数を割り出す基準になっていますから、専門教科を抜きにした配置となってしまうことがあります。複式3学級ならば、3人ですべての専門性を分担することになりますし、12学級あれば、それぞれの教科に精通した先生を割り当てることが可能になります。こうした格差を極力地ならしして配置することは物理的に不可能になるのが現実です。それでも、現実のおおかたは学校が学校として機能しています。それを可能にしているのは先生方の自助努力の結果なわけです。
 教務主任、生徒指導主事、研究主任が専任の配置になれば、教科教育以外の分野を担当できるようになります。現状は、少しばかりの手当と引き替えに担任と兼務している先生が圧倒的に多いのです。もちろん、今のような名称や担当内容ではなく、実務経験を積むことを条件にした資格を与えることで人材育成にもつながります。総合的な学習にしても免許うんぬんという前に専任の資格を与えた先生を配置する方が現場にとっては有効に働くでしょう。
 以上のような条件整備をのぞみながら、なかなか実現しないのは、必要最小限もしくは不足気味の状態で配置をしても、一律とはいえませんが、それなりに成果が上がっているからです。できていることにそれ以上手厚くする必要はないと判断するか、格差をなくしてさらなる成果を期待するかの違いでしょう。
 教育界での資格制度は情報教育の分野で一時進みかけたことがありますが、立ち消えました。今は、パソコンができる先生の定義として10項目ほどの操作例が示されているだけです。人材活用といいながら、先生の中に本業以外の専門性を秘めた先生はかなり見受けられますし、専門教科以外に秀でている先生も数多くおられます。教員免許だけで優劣を取り沙汰するのは情けないことです。免許証があれば車や船が運転できます。しかし、それは運転が上手であることを示すものではありません。教員免許でも同じことです。教育再生会議のいうように改革が進められたら、日本の教育は確実に後退していくと私は考えています。

 二つめの課題は、教育内容の構造を理解しているかどうかだと思います。教科研究だけしか経験していない先生にとっては、横軸の教育内容は意識の外にあるのではないかというぐらい希薄になります。総合的な学習に限らず、特別活動の分野においても実践研究をして、経験を積むのが近道だと思います。組織的な実践研究は予算も減らされ、後退していますから、立て直しが必要だと思います。
 教育は網の目構造で進めることを知っているだけでは実践が伴いません。意識を変え、組織的な実践に結びつける取り組みは、長年の課題になっていることです。