総合の課題(地域の学び、教育力)
 文部科学省のWEBページで次のような会議資料が出されましたので、【課題】部分の意見について検討を試みてみました。
教育課程部会 生活・総合的な学習の時間専門部会(第8回) 平成17年9月21日
配付資料「生活・総合的な学習の時間専門部会におけるこれまでの主な意見」

○  地域での学びが少なくなり,学校へさまざまな学びが集中しているという現実があるのであればそういう事実を前提として論議する必要がある。

○  なぜ現場でうまくいかないかということは,きちんと分析する必要がある。確かにマネジメント能力の問題や教師の指導力による部分もあろうが,家庭や地域の教育力の低下からさまざまな課題が学校へ集中するなか,生徒指導にかなりの時間を取られ,教科の指導も行いつつ,さらに「総合的な学習」の準備にあたる教員の状況も踏まえなければならない。それを踏まえた上で,サポートの方法を考えなければならない。

 
 地域の中で学びが少なくなっているという現実は、どこでもその通りというわけではありません。地域には、長年維持されてきた集落、比較的新しい住宅団地の集落、境界が隣接しあっている集落など、いくつかの形態があります。伝承する文化の有無や年齢層により、地域の学習素材が豊富なところとそうでないところがあるということです。
 例えば、とんど祭(左義長)の風習がすたれているので、学校にお飾りを寄せ集めてしたり、地域と学校がいっしょになって大がかりなとんど祭をしたりすることがあります。学びをきちんととらえていたら、地域の行事を学校が肩代わりするというなことは起こりにくいと考えられます。きちんと考えて位置づけをしている学校では問題になりません。
 地域の教育力が低下したという話題は、子どもたちが少なくなったこと、地域で群れて遊ぶことがなくなったということなどが原因となって交流する場がほとんどないわけです。そうした現状の中で確実に失われていったのは自然体験、社会体験の機会です。問題があるとすれば、これらの体験を学校教育の中でどのように組み込むかでしょう。
 捨ててはいけない文化を捨て去ろうとする現実があり、そこを補完する役目を学校が担うと考えるから体験のみが先行するのです。ましてや、地域に補完を期待するとさらによくない結果を招きます。捨ててはいけない文化を学びとしてとらえることで教科書にはない学習素材が価値あるものになります。


 総合的な学習の時間がうまくいかない学校の事情は、それぞれの学校で異なっているはずです。これまで、私は基本的に先生が意識を変えることを中心に主張してきました。生徒指導上の問題の対応に追われてそれどころではないという事情であっても、分かる授業、楽しい授業を進めれば不可能ではないとも思ってきました。教科書がないからやり方がよく分からないという事情であっても、指導法を身に付ければ不可能ではないと思ってきました。学校全体が推進できるような雰囲気ではないという事情であっても、リーダーシップを取れる先生が一人でも出てくれば不可能ではないと思ってきました。
 例えば、生徒指導の分野でこれまで培ってきた指導体制作りの手法は、実践的、経験的な方法で実証されています。問題行動に対症療法で取り組んでも解決にはならないという成果です。単純に学校が楽しい、授業が楽しみ、行事が楽しみといった、ふだんの学校生活が充実していけば問題行動に走る子どもたちは減っていきます。家庭がこわれかけていても、学校に居場所があれば救われます。
 ところが、どこにいても居場所がない子どもたちは、どこかで発散しようとします。迷惑を顧みない行動が起こります。せめて学校に行けば楽しいという受け皿は、すべての子どもに保障されることですから、特別扱いにはなりません。家庭がしっかりしていないからと責任を転嫁してしまうと排除しか残らないでしょう。
 学校現場で上げてきた成果を抜きにして問題解決を図ろうとすると支援という名目の拙速な押しつけになってしまいます。いじめっ子を出席停止にすれば片付くような問題でないことは、現場の良識ある先生は承知していることと思います。
 そうした成果を生かし切れない学校があるから、事件は繰り返されます。原因は一つだけです。切り捨ててはいけないシステムを転勤してきた無知な先生があっさりと切り捨てることで不幸な繰り返しは起きています。組織として機能している学校のシステムを取捨選択できる人材を増やすのが先決ではないかと私は思っています。パソコンに例えれば、自分が使わないアプリケーションは必要ないからという判断でゴミ箱に捨てるようなものです。知らないことがシステム全体を使えなくしてしまうわけです。よく分からないから現状維持をするほうが弊害は少ないという学校を渡り歩いてきた実感です。